前回の記事には夥しい反応があり、ひとつずつにはとても反応しきれないけど、少し捕捉を試みます。
「芸術か猥褻か」がなぜダミー問題か。この問いをクソ真面目に受けとると、この問いの仕掛けに脚をすくわれて身動きがとれなくなる。ぼくはそう思う。でもだからといって、この問い自体がそもそも無意味だとか、論理的に体をなしていないとか言いたかったのではない。この問い自体をナンセンスだとして突きはなす人もいるけど、突きはなしてもこの問いが反復されるのを断ち切ることはできない。そして法的に争うときには最終的にこの問いに対して、何らかの根拠をもって、戦略的に答える必要がある。そのことはたしかである。
重要なのはこの問いが、誰によって、何のために問われているかを見極めることである。警察や裁判所は、哲学的・本質的な意味における「芸術とは何か?」などという問題には何の興味ももっていない。当たり前である。もちろん、中には芸術を解する警官や裁判官がいるかもしれないが、たとえそうだとしても、彼らはその見識を職務上の判断に反映することは許されていない。一方、芸術や文化に関わる人々の多くは、ぼく自身をも含め、基本的にお人好しなので、自分たちが共有する「芸術」理解を、同じ人間なのだから、真摯に話せば誰にでも分かってもらえるのではないか、などと心の底では期待している。お人好しで、おバカさんなのだが、だからこそ存在意義があるのだと思う。
取調室や裁判所は、芸術論をたたかわす場所ではない。では、そうした場で芸術の自由を主張したい人は、本質的な議論は最初からあきらめて、有能な法律家のようにひたすら「いかにすれば勝てるか」という戦略的思考に集中すべきなのだろうか? たしかにそういうことも、時と場合によっては必要なのかもしれない。でも、たとえそうして係争に勝てたとしても、それが目的だったのだろうか? 裁判で勝ったとしても、その、まさに目的を達成したということにおいて、何かが決定的に置き去りにされたということにはならないだろうか? もちろん闘うからには勝つことが重要なのだが、あまりにそれに集中しすぎると、何か根本的に、本末転倒のようなことにはならないだろうか?
ぼくは民主制というのは、いわば「素人が専門家に楯突くこと」だと理解している。そんなことをしてもふつうの意味で勝ち目はないのだが、そのような抵抗が持続的に、くり返し行われることで、システムはやがては変化を余儀なくされる——そういうのが民主制の発展だと思っている。だから、あまりスマートすぎる議論には、つい警戒してしまうのである。