まもなく日本記号学会第34回大会が東京大学で開催される。「ハイブリッド・リーディング—紙と電子の融合がもらたす新しい〈グラマトジー〉の地平—」というすばらしいテーマを、実行委員長である東大の石田英敬さん、東海大の水島久光さん他に準備していただいた。一日目の5月24日(土)は、デザイナーの杉浦康平さんに講演をお願いし、ぼくはそのディスカッサントとして登壇する。とはいえ大会本番では時間の制約もあり、それほどゆっくりと話はできないと思うので、準備もかねてこのブログで少しずつ考えてゆきたい。
紙と電子の融合(ハイブリッド)。たしかに、読むという行為は変容したようにみえる。一日のうち、紙に印刷された文字を読んでいる時間と、何らかの電子的表示装置の上の文字を読んでいる時間とは、どちらが長いだろう? そしてまた、それら両者はたんに並存しているのではなく、互いが互いの中に入り込んでいる。つまり、書物は一見昔ながらの姿をしているとはいえ、そのテキストはたいていの場合電子的に書かれ、電子的に編集され、電子的に組版され印刷されたものである。一方「電子書籍」の方も、そもそも「書籍」と呼ばれる必然性すらどこにもないのに、ページをめくるアニメーションを工夫したりして、書籍の形態を忠実に模倣しているのである。
かつて人々はよく、電子的媒体によって将来書物が取って代わられるのではないかというような、無邪気な空想をしていた。今でもそう考えている人はいるかもしれない。たしかに通勤電車の中でかつては新聞や週刊誌や文庫本を広げていた乗客が、今では世代にかかわらず、ほとんどの人がスマートフォンかゲーム機の画面を眺めている。そうした風景に「書物の危機」を感じる人は、きっと紙の書物と電子的媒体とをふたつの異なった存在だと考え、紙に印刷されたものを読むという経験の中に、何か他の行為にはない、特別な価値を見出しているのだろう。
けれども事態はそんなに単純ではない。私たちが眼にしているのは紙と電子との対立ではなくて、両者が様々な仕方で融合し模倣しあいながら変容してゆく、複合的な諸存在の生成変化である。そしてそれに呼応して読書行為、つまり〈読む〉という経験それ自体もまた、ダイナミックに変化している。重要なのはこの変化の実相をとらえることであり、それを通して〈読む〉という行為の本質——電子的読書が到来するまではいわば隠されていた本質——について考えることである。電子的情報は読書を危機に陥れているのではなくて、むしろ読書とはそもそも何か? という根本的な問いを私たちに突きつけているのである。それはさらに、紙か電子かを問わず、私たちは本当に〈読んで〉いるのか? というさらに根源的な問いへと導く。ぼくはこのことを考えてみたい。
〈読む〉とは何か? 私たちは本当に〈読んで〉いるのか? こうした問いを考えるために、少し回り道をするように思えるかもしれないが、ぼくが十数年前に書いたテキストの一部を参照したい。それは電子的に〈書く〉ことについての考察である。これを参照するのは、電子的テクノロジーの登場によって明らかになった〈書く〉ことの本質と〈読む〉ことの本質との間には、ある程度パラレルな関係があるように思えるからである。長くなるのでここでいったん区切りをつけ、この続きは「読むことの変容[2]」として連載することにします。