では、〈読む〉という行為において、本当は何が変化しつつあるのだろうか? それはぼくにも分からない。とにかくこれまでの議論をまとめつつ、問題を整理してみよう。
まず確実に言えることは、「紙か電子か」という二者択一は錯覚だ、ということである。それら両者は並存したり敵対したりしているのではないし、また前者が後者に「取って代わられる」というような事態も存在しない。今日の本は、物体としては紙の姿をとっていても、そこには電子の論理が浸透している。現在作られている「書物」は、同じように本棚に並んでいる電子情報技術以前の書物と見かけは似ているけれども、その本質においては、それらはもはや書物ではなく、電子的情報が出力されたもの、つまり「プリントアウト」と連続的な存在なのである。
だから、〈読むこと〉における「ハイブリッド」という視点はとても重要だと思う。
一方電子書籍など、電子的な形態をとったテキストの中に私たちは何かまったく新しい情報様式の到来を見出そうとする。けれどもそれらは本当に、何か根本的に新しい形を示しているだろうか? ぼくは、電子テキストのもつ潜在的な能力に見合った存在様態は、実はまだ実現されていないと思う。現在の電子書籍は、基本的に伝統的書籍を踏襲している。電子はまだ紙を擬態しているのである。ちょうどグーテンベルクの時代の活版印刷本がそれ以前の写本を擬態したように。こうしたことはメディアの交替する時期には必ず生じた現象である。もう少し時間が必要なのだ。電子テキストはやがて、「書物」とはまったく異なった存在様態をとりはじめるだろう。
そしてその時、〈読むこと〉はどうなるのだろうか? ご存じのとおり、いま私たちが主に「読書」と呼んでいる「黙読」という行為は、〈読むこと〉の歴史において比較的最近獲得された習慣である。〈読むこと〉はもともと音読することであった。「黙読」とはいわば、自分が読んでいるテキストをひたすら個人的な自己の内面へと運び入れることである。それに対して「音読」とは、テキストを個人的自己を越えたひとつのパフォーマンスへともたらすことであったと言える。
電子テキストがやがてその本来の存在様態を獲得したとき、〈読むこと〉はふたたびある種のパフォーマティヴな能力を回復するのではないだろうか、とぼくは想像する。もちろんそれは、単純に音読の習慣が復活するということではない。かつての音読は、空間的にその周囲にいる人々とテキストを共有することを意味していた。つまり〈読むこと〉は孤独な営為ではなく、連帯を求める行為だったのである。ハイブリッドな未来の〈読むこと〉は、物理的空間を越えてそうした知の共有を可能にする実践となることを望みたいのである。