それでは、〈書く〉ことについての前回の考察をふまえて、〈読む〉ことについて考えてみる。ようするにポイントは二つ。①「時空間的定位の有無」と②「完結性/非完結性」である。
物理的痕跡を残すという意味での伝統的な「書く=掻く」ことは、その行為者を特定の時間と空間の中に定位していたのに対し、電子的に「書く」行為は物理世界との関わりを持たず、書き手は原理的には、どんな特定の時間にも空間にも所属しない存在となる。それが「ヴァーチャル」ということの意味である。またここから帰結することとして、書かれたものは「作品(エルゴン、活動の停止したもの、墓)」として完結せず、常に変化に開かれた不安定で流動的な存在様態をとることになる。
では〈読む〉ことについてはどうだろうか? 伝統的な意味(電子的な読書の到来以前)における読書の中心的意味は、たんなる文字情報の解読ということではなく、それが記された特定の物的存在(書物)と、時間・空間を共有するという点にあった。書物も人間も、ともにいつかは劣化し滅びる存在であるが、ふつうは書物のほうが人間よりも長く存続する。人間が80年から100年くらい生きるとすると、書物は保存状態がよければその数倍は長生きする。〈読む〉とはすなわち、自分よりも数倍くらいの時間存続する存在と、この時間を共有することである。
それに対して電子的な読書においては、その対象はそれを読む私たちとはまったく異なった存在様態を持つものである。電子的情報はその本性からして劣化しない。なぜなら身体を持たないからである。電子的な情報は不注意な操作によって瞬時に消えることはあるけれども、それは書物や私たちの身体がしだいに摩滅・老化してやがては消滅するというプロセスとは根本的に異なっている。電子的読書において、私たちは「書物」と特定の時間・空間を共有することはない。なぜなら電子的な「書物」は特定の時間・空間の中には存在していないからである。
完結性に関しても同様のことが言える。伝統的な書物を読むことは、完結した出来事と関わることである。そこではテキストは(たとえその書き手が生物学的にはまだ生きていたとしても)、その変化のプロセスが完結しているという点において、死者の残したものと同じ存在様態にある。伝統的な意味で〈読む〉という行為は、まさに死者と時間を共にするということだったのである。
それに対して電子的な読書においては、それが対象とするテキストは、潜在的には常に変化に対して開かれている。たとえそれが過去の文学作品であり現実的にはそのテキストは固定されて変更の可能性はないとしても、それが電子的テキストという様態で存在するかぎり、やはり変化に開かれたものとしてそこにあるのである。その意味で電子的な読書とは、死者に関わるのではなく、いわばあらゆるテキストを生者として扱うことである。
テキストの電子化とは、つまりは死者たちを墓から蘇らせること、それらを死せる生者とでもいうべき存在、ゾンビの如き存在にすることである。電子的読書において、私たちは本当に〈読んで〉いるのだろうか? 読書とは死者と関わる行為であるという意味においては、私たちは〈読んで〉などいないことになる。けれども別な意味では、これは異なった〈読む〉行為のはじまりでもあるだろう。〈読む〉という行為のこの変容した意味とは何か? それは私たちをどこに導いてゆくのか? 次回の「読むことの変容[4]」では、そのことをさらに考えてみよう。