もう15年も前のことになるが、「スタイルと情報―メディア論を越えて―」というエッセイを書いた。これは『スタイルの詩学―倫理学と美学の交叉(キアスム)―』(叢書【倫理学のフロンティア】Ⅶ、山田 忠彰・小田部 胤久編、ナカニシヤ出版、2000年12月)という本のために書いたものである。哲学系の叢書の一巻に載った文章なので、それほど多くの人が眼にするものではなかったのだが、このエッセイの一部が2005年のセンター試験(現代文)の追試問題に使用されたために、その後受験問題集などに再録され、書かれていることへの関心とは異なる目的から〈読まれる〉運命になった可哀想な(幸運な?)テキストである。
以下に紹介するのはその第一章である。見出しのフランス語は有名なミシェル・フーコーのマグリット論の書名(元々はマグリッドの作品シリーズのタイトル)「これはパイプではない」から借りた、「これはペンではない」という意味である。冒頭に触れているPalm Pilotは今では知らない人も多いと思うがそんなことはどうでもよく、スタイラスを用いた同種の入力方式を思い浮かべてもらえばよい。今このテキストを再読してみる意図は、ここで〈書く〉として名指している行為を〈読む〉に置き換えて〈読んで〉みることだ。それを通じて〈書く〉ことの変容はどこまで〈読む〉ことの変容とパラレルに理解できるのか、を考えてみることである。この考察は「読むことの変容[3]」で試みることにしたい。
1 Ceci n'est pas un stylo.
それはペンのような形をした、小さなプラスティックの棒である。けれども、それを「ペン」と呼ぶことはできるだろうか? その先端には芯もなければ、インクを染み出させるような仕掛けもない。にもかかわらずそれは、ペンのように握られ動かされることで、文字や数字が記録される。はたしてそれはペンなのだろうか?
いまわたしの眼の前にあるのは、Palm Pilotと呼ばれるPDA(Personal Digital Assistant =個人用情報管理ツール)に付属している、電子的な入力装置である。機械の本体はいわば電子化された手帳であり、この細い棒が、手帳についている小さな鉛筆といった格好である。この棒の先端で、液晶画面上のスイッチをタップして機械を操作する。だがそれだけではなく、この棒を使って、入力エリアの上に「書く」こともできるのだ。機械は運動による電界の変化を読み取って、それを文字や数字として解釈し、内部に取り込むのである。紙に書くことはできないけれど、機械の内部に直接「書く」ことができるのだ※。
「書く」――それにしてもこの言い方は正しいのだろうか? たしかに、情報操作は一般に「読み書き」の比喩によって語られる。だが、データをハードディスクに「書き込む」という場合、それが比喩であることは明白である。「書く」といっても実際には、電磁気的な動作が行なわれているだけだからだ。だが一見本物のペンと同じように扱われるこの装置の場合、かえって混乱してしまう。わたしは「書いて」いるのだろうか? それともこの場合も、「書く」とはたんなる比喩にすぎず、実は変わった方法で機械を操作しているだけなのだろうか? そもそも「書く」とは、どういう行為だったのだろうか?
このペン状の入力装置は「スタイラス(stylus)」と呼ばれている。それは鉛筆やペンで書くという、長い間われわれが慣れ親しんできた動作を、コンピュータの入力方式としてうまく利用したものである。もちろんどんな筆跡でも読み取ってくれるわけではなく、今の段階では、機械が読み取り可能な決まった書き方を、人間の方で習得しなければならない。
このように言うと、なんだ、やっぱりデジタルは不便だ、手書きのほうがよっぽいい、と思う人がいるかもしれない。けれども、書くことをめぐるデジタルとアナログとのそうした違いは表面的なものである。そもそも紙にペンで書くという行為を習得するためにも、人間はそうした新しい道具の性質にみずからの身体を順応させなければならなかったはずである。一方、電子的な読み取りの効率は機械の能力の問題であり、そうしたツールが持ち主の筆跡まで学習するようになれば、イライラせずに入力できるようになるだろう。
ではデジタルとアナログとの違いとは、本当はどこにあるのか? それは先ほどの疑問、つまりスタイラスを使ってわたしは本当に「書いて」いることになるのか?という疑問にかかわっているように思われる。実用的な意味でならもちろん、わたしは書いているといって何の問題もない。記録を取り、後からそれを参照できるのだから、ペンで手帳に書こうが、スタイラスを使って機械に記録しようが同じである。
それでも、スタイラスを用いて「書く」と言うことに奇妙な違和感が伴うのはなぜだろうか?実はこれこそが、「書く」とは何かと問いに触れているように思えるのである。この違和感は抽象的なものではなく、むしろ直接的な身体感覚、スタイラスで「書く」時の独特の感触にかかわるもののようだ。スタイラスで「書く」行為には、摩擦や抵抗が感じられないのである。しかもそれは、それが触れている物理的対象をなんら変化させない。スタイラスの先は入力パッドの上を滑っていくだけであり、その後には何の物質的痕跡も残らないのである。
それに対して、「書く」とはどういうことだったか? この行為を成り立たせているのは、たんに特定の軌跡を描いて筆記具の先を運動させることではない。書くという行為は何よりもまず、紙その他のもつ物理的な抵抗感や、その上を走る筆記具と紙面との間の摩擦を感じることなのである。書かれることによって紙は圧迫され、物理的に変形される。言い替えれば書くとは、「ザラザラした世界」(ウィトゲンシュタイン)と接触することなのである。筆であれペンであれ白墨であれ、書くことは一方的な出力ではなく、書き手の運動がつねに物質的世界からの抵抗としてフィードバックされる、複雑でインタラクティヴな行為なのである。
書くことは、そうした行為を通じて、紙の上に物質的な痕跡を残すことである。この痕跡は消去することもできるが、完全に消去することはできない。消去することによって、そこには消去の痕跡が残ることになる。書くことはリニアな時間の流れを記録すること、つまり身体が傷を受けたり、老化してゆくプロセスと同じである。そこには否応なく時間が堆積してゆく。書くという行為においては「初期化」は不可能なのだ。
それに対してスタイラスを用いるときには、運動だけがパターンとして読み取られる。ここでは空間的な定位が混乱している。つまりスタイラスを持つ手は、本当はどこに位置しているのか不明瞭なのである。特定の物質との触れ合いが重要ではないのだから、書く手がたまたま置かれている場所は意味をもたない。この場合手は、どこでもないと同時にどこでもありうるような場所、まさにヴァーチュアル(潜在的)な空間のなかを動いていることになるのである。
「スタイラス」とは元来、蝋板に書き記すための鉄筆のことを意味していた。この鉄筆が板に塗られた蝋を掻き削ることによって、文字を書いたのである。この蝋板を古代ローマ人たちは手紙としても用い、その後もヨーロッパではかなり広範囲に使われた。「書く」ことと「掻く」こと。「書く」ことは長い間、まさに「引っ掻く」ことによって痕跡を残す行為だったのである。そして〈文体〉を意味する「スタイル」という語が、この鉄筆の名に由来することはよく知られている。スタイルとは、個人の身体が物質世界を引っ掻いた痕跡の中に記録される何かなのである。
「書く=引っ掻く」という行為は、言語記号と書き手との間にひとつの関係を設定する。言語には、筆跡という形で書き手の身体性が書きこまれるのである。書き手の精神と身体は、物質世界のなかに転写され、固定される。そして情報の転写プロセスはそこでひとまず終るのである。書かれてしまったものは、取り返しがつかない。自分の残した筆跡に対して愛着、羞恥、憎悪などの強い感情が起こるのも、そうした変更不能性に由来する。書かれた文字とは、モノと化した自分自身なのである。それは、まるで自分の肉体の一部のように感じられるのだ。スタイルとは、こうした変更不能性と切り離すことができない。
このように文字言語が変更不能な姿で現れることが、記号と意味作用についてのひとつの考え方を導く。つまり「書く」ことを通じて身体性が焼き付けられた「作品」は、あたかも自律的な意味作用をもつ存在であるようにみえるのだ。「書く」ことは創造者が被造物に息を吹き込む(=生命を与える)行為に喩えられることで、独特の儀式性を帯びてくる。作者の精神が受肉した「書物」という形式において、記号過程と解釈のプロセスは完結しているようにみえる。読者はあたかも神殿の中の聖遺物に対するように、到達不能の意味に向き合わねばならないのである。
文字言語に対する二〇世紀の新たなアプローチ――ロシア・フォルマリズムの詩学、さまざまな記号学的、構造主義的アプローチ、ガダマーの哲学的解釈学や、その影響を受けた読書や受容の理論、脱構築批評etc.――は、いわば「書く」行為の見かけの完結性を批判し、「作品」や「スタイル」の概念がもつ儀式性を解体することによって、言語活動を新たな動的連関の中にもたらそうとしてきたことになる。そして現代のデジタル情報環境の中で、「書く」ことのそうした儀式性は、理論的にではなく直接的な身体感覚として、容赦なく消滅しつつある。
電子的に入力された言語には、そもそも完結性が存在しない。記号は特定の物質的形態として終結するかわりに、潜在的な情報空間の中を浮遊し、さらなる変更や転写へとつねに開かれた状態にある。「スタイル」という概念がもしも、個人の精神/身体がある特別な行為を通じて残した変更不可能な痕跡だけを意味するとすれば、スタイラスをはじめとする電子的言語環境は、「スタイル」を支えている世界観を根本から掘り崩している。そしてそれにかわって、言語の持つ反対の側面、つまり終結しない記号過程、意味作用につねに介入する解釈者の存在、という側面が強調されることになるのである。電子的環境においては否応なく、言語の動的な側面に注意をはらうように促されるのだ。
それは、手書きや印刷メディアにおいては見えにくかった、言語の非完結的な本質と可能性が解放されることである。かつて、「ペンを持つ手」は書き手の精神にもっとも近い何かだったかもしれない。けれどもエッシャーの有名な版画においては、互いに描き合う二つの手の行為が循環し、「書く」ことが原理的に終結しないプロセスであることが示されている。スタイラスはもっと直接的に、「書く」行為を脱神秘化し、言語の完結性を崩壊する。そして「手」はもはや、書く人の精神を体現する特権的な器官ではなくなるのだ。
※ Palm Pilotではこの独特の書法は”Graffiti”(落書き)という意味深長な名で呼ばれている。「落書き」とは特定の意図や目的なしに書くこと、まさに無意識からのメッセージを、壁や地下鉄などの本来書くべきでない場所に書くことだ。落書きとは、言語がハイパー空間へと逸脱してゆく衝動を本来もっていることを、電子情報環境の到来よりはるか以前からずっと証明してきた行為だと言ったら、言い過ぎになるだろうか?