横浜国立大学の室井尚さんが書いたブログ「国立大学がいま大変なことになっている」が、ものすごい反響を呼んでいる。この記事を告知する彼のツイートをぼくも最初の段階でリツイートしたのでちょっとだけ責任あるのだが、その「反響」の多くはネガティヴな悪口なので、本人も(毎度のこととはいえ)ウンザリしている、というかあきれている。
というのもそれらは、ネガティヴといっても論旨を理解した上での反論ではなく、冒頭をちょっと読んだり他のコメントをみて「なんだこいつ、ムカツク」というような反射によって書かれたものだからだ。だからどんなに口汚く罵っていても、彼の授業に出かけていって直接文句を言ったり、手紙やメールですら反駁する人はまずいない。つまりそれらは「反論」ではないのである。では、反論するつもりもないのになぜ多くの人はそうした反応を示すのか? ネットとはそういうものだ、と多くの人は思っているかもしれない。だがそのことの根本的な理由は、けっして自明ではないのである。
発話が匿名であることで、人間の中の卑しい部分(政治家、有名人、大学教授などがエラソーに何か言ってること自体への反感、「ヤツらを引きずり降ろせ!」という、キエルケゴールが言った「水平化」の衝動)が表に現れるからだろうか? あるいは室井さんもあきれているように、今や何でもかんでもスマホで読んでいる多くの人々は、もはや「三行以上の文章が読めなくなっている」、つまり様々な要因を考慮しながら時間をかけて思考したり議論を組み立てていくことができなくなっているからだろうか?
こうした理由は、どちらも間違っていないと思う。けれどもそれらは根本的な理由ではない。若い人たちはネットの現状を既存の現実と感じているかもしれないが、ほんの20年前にはなかったのだから、こんなことは実は既存の現実でもなんでもないのである。インターネットが現在のような姿をしている必然性はどこにもない。匿名的な誹謗中傷を加速させたり、読解力や思考力を鈍化させたりすることは、電子的ネットワークそれ自体の本性とはそもそも何の関わりもないのだ。
では、どうしてインターネットは現在このような姿をしているのだろうか? それが利便性のためにこの20年間広範囲に普及し、人々の欲望がそれを形づくった結果、現在のような状態になった——それは自然な説明である。だがまた、このように問うこともできるのではないだろうか? ネットが匿名的な発話を可能にすること、人々がもはやあまり深く考えなくなること、一時的な反射だけで何かをしたような気にさせることで、最終的に利益を得ているのは誰だろうか?
たとえば室井さんやぼくのような大学のセンセイが大学批判をすると、たいてい「ネットでそんなこと言ったって無力だ、学内で行動せよ」みたいな批難を受ける。ネットでの発言はたしかに無力だ。でもそういうことを言う人はそれをネットで呟くだけだから、明らかにその発話はさらに無力である。そのようにして、無力な発話がさらに無力な発話によって相殺され、弱者同士が互いに反目しあうようになるなら、ネットワークを通じて批判的な思考を発展させたり、現実的な改革を求めて連帯する可能性を封じることができる。
ぼくたちは現状のネットの中で、匿名性に護られながら好きなように発話している。そしてエラソーに議論している人には反射的にケチをつけたくなり、それが許されることを「自由」と感じるているかもしれない。でもそうした状況は、結局のところ、誰にとっていちばん都合がいいのだろうか?