なんだかんだ言っても、教員という職業を長らく続けてきた。それが自分の人生である。ぼくはもう50代の後半だから、今から会社員とか漫才師とか自動車整備師とかに転身できる可能性は、かぎりなくゼロに近い。戦争か天変地異でも起こらないかぎりは(起こっても無理か)。
続けてきたとは言っても、大学の専任教員になったのは1990年からだから、たかだか25年くらいのことだ。その前にも塾や予備校でも教えていたけど、それはまあ、気楽なアルバイトである。それ以外は大学しか知らない。その程度の経験で、〈教える〉行為のコアな意味を語るなどとは、まことにおこがましいことだ、とたしかに自分でも思ってはいる。
「私ごときがこんなことを言うのはおこがましいことですが…」。この種の謙遜はしかし、男の仕切ってる社会の掟みたいなもんであって、その意味は頭では理解できるようにはなったのだけど、ぼくはいまだにその社会にもその掟にも馴染めないまま、こんな歳まで来たので、もうそんなことに配慮する意味はあまりないと、今は思っている。
とにかく、新年度が始まってゼミにも新しい3回生が入ってきた。去年は1回生配当の全学共通科目というのも担当したが、ぼくはそもそも新入生という存在がわりと好きである。このことは教員仲間の同意をえられない。大半の教員は新入生に対して、また一から基礎を教えて何とか形にしてやらねばならない、と溜め息をつく。すでに基礎知識や当該分野の決まり事を習得した上級生を教える方が楽だと言うのである。
それはたしかに楽かもしれないが、ぼくにはそれは退屈でしょうがない。ぼくたちが今自明の前提としている研究上の規約や慣習なんて、100年もすれば跡形もなく変わってしまうのである。それどころか「学問」とか「研究」とかいった活動のあり方自体、数世紀のうちにはすっかり変貌してしまう。
でも〈教える〉という行為のコアな意味は、その程度の時間的オーダーでは変わらないと思う。だから経験があろうがなかろうが、それについて考えることは意味があると思っているのである。
〈教える〉とは既存の知識を若年者に伝達したり、若者を何らかの既存の共同体に参入させるための活動だと普通はみなされており、そしてある意味ではその通りなのだが、こうした側面は〈教える〉という行為の結果であって、そのコアな意味ではないのだと思う。
ではそのコアな意味は何かというと、それは教師が新しい世代と接することで、自分たちが確信してきたこの世界の意味や構造が根本から揺るがされ、その動揺を通してなおも何かを語るというデスパレートな活動にある。自分には理解できない若者たちに、いかにして何かを〈教える〉かという七転八倒のパフォーマンスである。これを面白いと思えなかったら、ぼくは教員という職業を続けてはこれなかった。
ぼくは若い学生たちに理解がある、やさしい(ネガティヴな意味では「甘い」)教師だと思われているらしいのだが、本当はそれは正反対であって、ぼくは実は自分のことしか考えていない。毎年入ってくる新入生たちと接することで、ぼくは〈教える〉という行為の、人類史的な意味が知りたいのである。そのために学生たちを、自分のいいように利用しているのである。
〈教える〉行為のコアな意味とは、エゴイスティックなものだと思う。自分自身がもっと成長したい、変わりたいという動機だけで十分である。ぼくは、教師がもっとエゴイスティックになり、もっと自分を晒し、極論を主張し、そして自分を危険に晒すべきだと考えているのである。中途半端に相手のことを考えるのではなく、エゴイスティックを極めることによって「無私」に到達する、そういうことではないのだろうか。