昨日帰宅して郵便受けを確認したら、入試問題集の『赤本』を出している教学社から著作物使用願が届いていた。昔『朝日新聞』に書いた論説とか、この間紹介した「スタイルと情報」、1997年に講談社から出した『〈思想〉の現在形』の一部は、これまでにも何度か問題や教材に使われて来たので何気なく封筒を開いて、本当に驚いた。
なんとそれは、日本記号学会が毎年刊行している新記号論叢書[セミオトポス]の第3号『溶解する〈大学〉』の巻頭に書いた「大学の溶解、文化の自殺」というテキストだったのである。明海大学の今年度の入試問題として出題された。『溶解する〈大学〉』は、2005年に東京富士大学で開催された日本記号学会第25回大会「〈大学〉はどこへ行くのか? 」をもとに編集されたもので、この大会には西垣通さんや内田樹さんにも来ていただいた。この時ぼくはまだIAMAS(情報科学芸術大学院大学)に勤めていた。テキストの内容は以下のように、グローバル資本主義の侵入によって急速に変質しつつある大学の現状を告発した、かなりヤケクソな調子の文章である。
このような内容の文章が入試問題として出題されたことにショックを受けたのである。と同時に、これを読んだ受験生はどう思ったのだろうかと推測した。いろんな意味で考えさせられるのだが、こんな思いきった国語の問題を出した明海大学の出題担当者には敬意を表したい。
日本記号学会会長としては、学会刊行の叢書の内容の一部を公開することは、正直気が進まない。ぼくの文章はともかく、『溶解する〈大学〉』は他にも刺激的な論考や対談が収録されているのでぜひ買っていただきたい。けれどもぼくのエッセイの以下の箇所はすでに入試問題として公表されいずれ『赤本』にも掲載されてしまうので、ここにも紹介しておきたいと考える。8年くらい前に書いた文章だが、そこで語られている大学の現状は今も変わっていない(どころか、さらに深刻化している)と思う。
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大学の溶解、文化の自殺
日本記号学会第25回大会「〈大学〉はどこへいくのか?」の準備を進めていた時、何人かの友人たちから、次のような感想を聞いた。「ふーん、記号学会のテーマが〈大学〉ですか‥。面白そうだけど、ちょっと元気が出ないかも。」彼ら彼女らの多くは、人文科学系の学部、あるいは新しく設置された文理融合型の総合的な学部・学科に勤務する教員たちである。国立大学に勤める友人たちは一様に、独立行政法人化以降の学内環境の激変と、その中で人文科学系の研究者がどんどん追い詰められてゆく惨状を嘆き、私立大学に勤務する人たちは少子化の中での生き残り競争の熾烈さを訴える。大学がいろいろな意味で危機に瀕していることは確かでも、そうした厳しい現実の中で語られる大学の〈危機〉という話題には、いいかげんうんざりしているので、学会くらいはもう少し夢のある話をしたら?なんて言うのである。
『中央公論』二〇〇六年二月号の特集は「大学の失墜」というテーマだった。サブタイトルには「低迷する権威、進む就職予備校化」とある。マスメディアの中でこのように大学が問題にされる時、そこに共通するのはいつも〈危機の言説〉とでもいうべき論調だ。いわく、大学の伝統的な権威の「失墜」とは情報化、グローバル化、少子化などの押しとどめようのない歴史的現実の帰結である。今や、「閉鎖的」で「非効率的」なアカデミズムの旧弊な構造はやっと崩壊した。大学が生き延びるためには、新しい時代に即応した改革こそ急務である、云々。まるで革命後の非常時のようである。そこでは、現行の改革に異議を差し挟む者はもちろん、昔の大学を懐かしく語っただけでも、過去の権威に盲従する反動分子という烙印を押されかねない。そして、その知的活動の本性上「効率」や「有用性」という基準ではみずからを正当化できない人文科学系の研究者たちは、たとえ表立ってはそう呼ばれないとしても、「失脚した階級」として運命付けられていることになる。
いつの時代も、こうした〈危機の言説〉による現実把握がきわめて偏向したものであることは言うまでもない。情報化もグローバル化も少子化も、現在行われている大学改革を一義的に要求するような条件ではけっしてない。大学における研究・教育の「機能化」「効率化」を考えることはたしかに重要だが、それらが本来どのような「機能化」「効率化」であるべきかが、まず議論されるべきことである。それがなされないまま単純な数値モデルを押し付けることは、大学にふさわしい知的な振る舞いとは言いがたい。人類の知的営為の中には、原理的に客観化も数値化もできない領域が存在することは自明である。だがそうした知的活動は、それにふさわしい環境の中でしか「効率的」に「機能」することはできない。予算を獲得すればいいというような問題ではないのである。予算の獲得競争に追い込まれるような状況、そのための膨大な書類作成に忙殺されるような環境が問題なのだ。
ようするに現在の大学改革は依然として、「文明開化」以来近代日本がとり憑かれてきた〈危機の言説〉に共通する口調、事態を根本から熟慮しようとするあらゆる試みに対して「今はそんな時代じゃない」と叫ぶ、上擦った金切り声に支配されているように感じられる。過去の大学には少なくとも、熱に浮かされた現実社会から一歩退いて正気に戻り、落ち着いて世界や人生について考えるための場所、という役割があった。大学がある程度社会から隔絶された〈アジール〉であること、それが産業や経済にかならずしも即効の利益をもたらさないとしても、そういう場所もこの世界には必要だと思われていたのである。大学の存在を許していたのは「権威」などではなくて、一見役に立たないようにみえる存在も世の中には必要だと考えるような心の余裕、あえて言うなら〈エコロジカルな直観〉のようなものである。時代に即した改革はたしかに必要だろう。だが今、大学という存在の根幹をなす〈異空間〉としての機能までもが、湯水と一緒に流される赤ん坊のように捨て去られようとしている。これが真の意味での大学の〈危機〉であり、それはグローバリゼーションの中で文化そのものが直面している〈危機〉のひとつの徴候にほかならない。
もちろん近代国家の中における大学とは、そもそも社会から隔絶された修道院のような聖域ではありえなかった。大学はむしろ現実社会のただなかにありながら、一種の〈隙間〉のような異空間として機能してきたといえるだろう。大学は国家や産業社会に組み込まれながら、その内部ではかなり異質な論理が支配する場所だった。表向きには社会に「役立つ」ことを研究していることにしておいて、実際には直接の有用性とは関係のない幅広い知的好奇心を許容する。その意味では、社会という「宿主」に対してそこそこ利益も与えながら、そこから栄養を得て自分自身の生き残りを画策する「寄生虫」の生き様と似ている(1)。ここで重要なのは、「そこそこ」という部分である。というのも現代では、社会のあらゆる局面において「そこそこ」ではなく、一分の隙もない完全な機能化や最適化が目指されているように思えるからだ。だが寄生虫の例をみても分るように、生きた生態系は一般に、「一見無駄にみえるものが実は重要に機能する」という複雑な相互関係によって安定した秩序を形成している。無駄のないガチガチの機能連鎖だけで作られたシステムは「危ない」。大学から〈隙間〉としての側面を完全に奪ってしまうのは、こうした観点からみて完全に誤った選択なのである。
私が大学で学んだことは〈いいかげん〉であること、あるいは〈サボる〉ということのもつ創造的な意味であった。現代ではこれらの言葉にネガティヴな意味しか認められていないことを知りつつ、あえて言っているのであるが。知的活動というものが、単に事実として与えられた問題を解くことではなく、むしろ問題の根拠を問いそれを新たな形で定式化することをも含むとすれば、ほどほどの〈いいかげん〉さはそこには必要不可欠なのである。また〈サボる〉という日本語は、二十世紀のはじめフランスの労働者が木靴(サボ)で機械を破壊した行為を示す〈サボタージュ〉という語から造られた言葉であり「やるべきことをあえて怠ける」というような意味の日本語として定着している。それは、たんに課された仕事や勉強をしないというネガティヴなことではなく、それらをあえて放棄することによって、未だ意味づけられていない空白の時間を作り出すというアクションを意味していた。
未だ意味をもたない世界の〈隙間〉を生きること——それはつまり「若さ」ということである。年齢の問題ではない。現代人は、肉体的な「若さ」を維持することに病的なまでに固執するくせに、こうした本質的な意味における「若さ」を自分から放棄しようとしている。教育や研究だけではなく、産業やビジネスもまた、無駄なもの、〈隙間〉的なものを駆逐してしまえば、システムはやがて機能不全に陥るだろう。グローバル化とは世界の老化である。
‥などと言いつつ、たんに悲観的になっても仕方がない。「溶解」してゆく大学の中で、自分の周囲にさまざまな〈隙間〉を作り出していくほかはないのである。