それは、「近代」がそもそもその始まりから抱えてきた、「女と科学」という問題ではないのだろうかと、ぼくには思える。
ここで「科学」と言っているのは、狭い意味での自然科学という意味ではない。合理的な手続きに従って探究を進め、共有可能な知識を構築するというような、理想的なモデルのことである。
だが真に新たな「知(サイエンス)」は、そうした合理的で公開可能な手続きによっては、達成されてこなかった。旧来のパラダイムを破る新しい知はたいていの場合、多かれ少なかれデモーニッシュなものとして、最初現れた。
「男たち」(とここで言うのは性別ではなく、既にエスタブリッシュされた手続き的合理性を元にして何でも判断できると信じている人のこと)はそれを怖れ、何とかして、そんなものはなかったことにしようとすることも常であった。
それはまあ、無理もないことである。男というのはそもそも産み出すことができないのだから。男は産むことに関して根源的な畏怖を抱いており、その現場を直視することができないのだから。
19世紀だったら「女に科学などできない」と公言してはばからないようなセクシストはたくさんいただろう。一方、21世紀の現代ではその逆に「科学に性差など関係ない」と、たぶんみんなが言わなければならない(性差は科学=知よりも前にあるのに?)のであろう。
でもこれらは両者とも、知(サイエンス)における真に革新的な部分が、(それを担う人の生物学的な性別とは無関係に)根本的に非‐男性的な要因、その意味で「女性」的な要因であることを認識しない点において、ほんとうはまったく同じであり、そしてまったく同じように非生産的なのではないのだろうか?