幸せはお金ではない!などと言う(…言うのかな、今でも。ほんとに? )
そういうことが、少なくともかつて言われたのは、マジでお金が足りなかった時代である。ぼくが物心ついたのは、まだそういう時代だった。お金というのはとても大事だ、とぼくは子供心に直観した。どうしてかというと、お金が単にあることが大事なのではなくて、それが本当に必要なところに適度に環流することが大事だと感じたからである。
けれどもお金というのは魔物であって、その必要性が、知らないうちに一人歩きする。手段であったものが、いつのまにか目的になるということである。そして、この転倒に気づくことは難しい。なぜなら、お金は同じお金だからである。この自同律(「AはAである」)こそが、お金の力なのだ。
お金は、いろんな形態をとりうる。現代では、とりわけ大きなお金はたいてい電子情報的形式、ヴァーチャルな姿をとっている。つまりそれは、モニター上のたんなる数値である。とてもクリーンで、「お金」にみえないのである。実はこのことがクセモノなのだ。
お金がいろんな形をとるということは、お金への欲望もまた、いろんな形をとることを意味している。19世紀小説には、金袋に貯めた金貨を毎晩勘定してヒヒヒと忍び笑いをするような「守銭奴」みたいなキャラクターもいた(ほんとにいたかは疑問)。いや現代でも、お金に魅入られた人物像は、基本それに近いイメージで描かれることが多いのではないだろうか。
でも、それは間違っている。現代の「守銭奴」はそんな分かりやすい見かけはしておらず、なんというか、むしろ知的で、スリムで、情報リテラシーに優れ、菜食主義者で、異文化に寛容で、性的にリベラルで、地球温暖化やクジラの絶滅を危惧したりしているかもしれない。…などと言うと自分自身にもちょっと跳ね返ってきそうだが、実際そうしたことも含めて言っているのである。
いま、河本信治さんがディレクターをつとめる「京都国際現代芸術祭(パラソフィア)」という事業に協力して、ボランティアの学生達と出版物を作っている。その第1号が先日出た。そこに掲載した座談会の中でぼくは、今の文科省・大学が自己宣伝している「知」というのは結局「お金」のことだ、という極論をした(詳しくはフリーペーバー『パラ人』創刊号をお読みください)。
その座談会の中で学生たちと長い議論をしながら、最後には「幸福とは何か?」という主題に到達した。もちろん、お金が即幸福ではない——現代では、誰もがこのことに同意するだろう。これは安全な、中身のない真理である。でも実は、「お金」は別な形をとっているのである。たとえば「リア充」。それでぼくは議論の中で「リア充は幸せではない」と宣言した。
そしたら学生たちがけっこう反応した。どうしてですか? 先生はリア充がうらやましくはないんですか!? と。ぼくの考えでは、「リア充」と言われているのは、昔「お金持ちになりたい」と都会に出て来た若者が、四畳半の冷たい布団にくるまって見た夢と同じである。つまり「リア充」という概念は、それがたとえ恋愛的パートナーの有無に関することであっても、結局のところは「お金」のことなのである。
つまるところ、本質的な問いはいぜんとして「幸せはお金なのか、そうではないのか?」ということなのだ。19世紀も今も、人が直面している問題は同じである。そんなふうに挑発してしまったので、次の『パラ人』(7月刊行予定)の座談会のテーマは、「幸福論」になりそうなのである。