障碍は、乗り越えなくてもいい。ぼくは本当にそう思う。(「障碍」というのはかつて「障害」と書かれたり、それが具合悪いらしくて「障がい」と書かれたりしているけど、まあ好きにすればよろしい。)
障碍と言っているのは、いわゆる精神的・身体的ハンディキャップのことだけではない。誰しも、自分がかくありたいという理想を阻むような現実的条件に、多かれ少なかれ突き当たっている。それにどう対処すべきかと悩むとき、現代の教育もマスメディアも、それを「乗り越えなさい」と教え、それを「乗り越える」という物語を讃美するのである。
これこそが洗脳というものであり、絶対に耳を貸してはいけない悪魔のささやきである。「障碍を乗り越える」という美談に感動するのは、結局のところ、そうした「障碍」を持たない勝者たちへの服従だからである。障碍というものの意味を理解しない人たちが、そうした物語を増殖させ、金儲けのネタにしようとしているのだ。
「だからね、この人は耳の聴こえない作曲家、現代のベートーヴェンということにしておいてください、いやいや、私たちの私利私欲のためじゃない、そうすることで苦しんでいる多くの人が勇気づけられ、元気を与えられるんです!」マスメディアの悪魔はこのように囁く。けれどもその「勇気」も「元気」も空手形であり、本当に苦しんでいる人にはけっして届かず、苦しみをネタに感動を得たい人々の慰みものにしかならない。
障碍は、乗り越えるべきものではない。それは受けいれ、抱きしめて、それと共に生きるべき何かなのだ。そのことを理解し、そうなるための習慣を作り出すことが、生きることのもっとも重要な営みなのである。人間の高貴さとはそこににしかないのである。