ぼくは、同性愛をアブノーマルだと考えていない。それは人道的な理由からでも、性的マイノリティの人権を護るべきだという動機からでもない。たんに同性愛は自然なことだからである。というより、「同性愛」「異性愛」「性的マイノリティ」といった分け方は、人間がいわば無理やり自然に押し付けたカテゴリーであり、自然界にはそれに対応するような現象は存在しない。自然界にはただ、多種多様な性的関係があるだけなのである。ぼくの考えは、この端的な事実に基づく。「同性愛」という言葉も、便宜上しかたなく使っているにすぎない。
「同性愛」と呼ぶことのできる現象は、動物界には広くみられる。最近の研究では、鳥類やほ乳類などを中心に1500にも及ぶ種において、生殖に結びつかない性関係が観察されている。異常でも何でもない。「同性愛」は自然なのである。もちろん「異性愛」も自然である。自然でないのは、「セックスは子孫を残すための行為だから、異性愛が自然で同性愛は異常だ」というような認識である。自然は、「セックスは子孫を残すもの」というような目的では動いていないのである。それどころか自然は、「強いものが勝つ」とか「生き残る」といった目的にすら、あまり関心をもっていないようにみえる。
「異性愛」を規範化しそれ以外の性関係を排除しようとする人々は、しばしば「自然」を引き合いに出す。子孫を残すことに結びつかないような性関係は自然ではない、異常だというのだ。けれども上のような事実からすれば、こうした考えほど自然の実際のあり方から逸脱した、倒錯的なものはないことが分かるだろう。自然界には「セックスは子孫を残すためのもの」といった貧乏くさい目的は存在しないのである。
ぼくが30年以上読み続けているカントの『判断力批判』第2部は、自然の目的性ということを論じているのだけれども、ぼくはいまだにちゃんと理解できない。とはいえ次のことは確かなようである。自然はあたかも神さまが造ったかのように、何か目的を持っているかのように振るまう。でもその目的は「勝つ」とか「子孫を残す」とかいった、人間の浅はかな目的とはどうも違うようなのである。では自然の目的とは何かというと、人間には理性的認識の限界があるために分からない。ただ自然は驚くべき多様性と、あたかも目的を持つかのような精妙な活動を示す。カントは言及しなかったが、性的関係の多様性と豊かさもまた、自然のそうした側面のひとつなのである。
「自然に帰れ」というスローガン(これはルソーが言ったわけでもなく、トルストイ他を通して多くの人が、ルソーはそう言ったと思いたがっていることに意味がある)は、何も原始人や動物のような生活に戻れということを意味しているのではない。文明化のプロセスは、同時に自然化のプロセスでもあるということを喚起するという点で意味があるのである。近代の産業社会は文明と自然とを対立させ、文明が自然の中に埋め込まれたプロセスであることから、目を背けてきた。自然に帰ることは文明を退歩させることでも停滞させることでもない。人類史的な視点からみるならば、同性愛への差別や排除を取り除くことは、性的マイノリティの解放や権利獲得といった事柄を越えて、異性愛をも含む人類の性的文化そのものの豊かさを回復するために必要なのである。