明日から2日間、京都精華大学において日本記号学会第33回大会「〈音楽〉が終わったら ポスト音楽時代の産業/テクノロジー/言説」が開催される。ぼくはその第1日目のセッション「音=人間=機械のインタラクション」における司会を担当することになっている。といってもこのセッションは、「サイン波オーケストラ」、落晃子、フォルマント兄弟らによる演奏など、すばらしいパフォーマンスが盛りだくさんであり、あまりゆっくりと議論する時間はとれないかもしれない。しかもぼくは今回は司会なので自分からしゃべるつもりはない。そこで、ぼくが今考えていることをここに少しメモしておきたい。
明日演奏を行う3人のアーティスト・グループに少なくとも共通しているのは、その演奏行為において「機械」が決定的な役割を果たしているということである。それは「機械」であって「道具」ではないことに注意する必要がある。なぜならどんな機械でも、それを道具として使用することは可能だからである。たとえばコンピュータを自分の思うとおりの演奏や視覚的効果を実現するための手段として用いるのなら、コンピュータといってもその人間に対する関係においては、伝統的な楽器や画材と基本的には変わらない。たんなる道具である。そのことは逆に、ふつう機械とは呼ばれないどんなものでも、それを「機械」として用いることもできる(たとえば「チャンス・オペレーション」など)ということを意味する。
道具と機械とを分けるのは、行為の相互性、つまり「インタラクション」が存在するかどうかである。だがこの「インタラクション」というのが、なかなか簡単には理解できないものなのである。「インタラクション」とはふつう、何らかの行為に対して応答があり、それがデジタル処理のおかげできわめて短時間に行われることだと考えられている。観客の動きや声などがリアルタイムで作品に何らかの変化をもたらすいわゆる「インタラクティヴ・アート」とはそういうものだ。一時期大流行したSONYのAIBOのようなロボットも、ユーザーの働きかけに反応し、しかも予想外の反応もするインタラクティヴな機械なので、生きた動物と同じようなコミュニケーションがそこに成立する(だからペットとして「飼う」ことができる)のではないかと、人々は考えた。
けれどもインタラクティヴ・アートもAIBOも、まもなく飽きられてしまった。登場したときにはあんなにワクワクしたのに、どうしたことだろう? その理由はまず、インタラクションといってもそれはしょせんアクションとリアクションとのセットにすぎず、応答が予測できないといってもそれがどのように予測できないかはあらかじめ分かってしまうからである。いわば、予測可能な範囲の内部での予測不能性にすぎなかったのだ。インタラクティヴ・アートやAIBOはその観客やユーザーにとって、最初はたしかに「機械」として現れ、そこにはインタラクションが成立しているようにみえるが、やがてその挙動に慣れてくると、それらは「道具」へと変質する。それは、インタラクションをあくまでもひとつのシステムとして実現しようとしたためである。
ぼくは、「インタラクション」とはアクションとリアクションの組み合わせには還元できない何かだと思っている。したがって、インタラクションとはもっぱらシステムとしては実現することができず、むしろシステムに従うと同時にシステムを内部から壊し、開いていく「力」の作用のようなものだと考えている。別な言い方をするなら、それはシステムが原理的に内蔵する不安定性、不完全性のようなものであり、この不安定性と不完全性によってシステムは外部と接合されている。これがインタラクションという状態である。そこでは応答はたんにその値が予測不能なのではなく、応答のとる値の範囲それ自体が確定できないのである。また、実際的なコミュニケーション、つまりそこでやりとりされる具体的なメッセージの意味や真偽よりも、むしろ「繋がっている」「参加している」という状況それ自体の方が決定的な意味を持つ。インタラクションのこの側面がもっとも明確に現れるのはネットワークだ。ネットワークはそれによって自分の立場を表明したり意見を交換したりする手段である以前に、まず「ネットワーク上にある」ことを可能にする環境として重要なのである。
「インタラクション」をこんなふうに理解するのは、たぶん常識的ではないだろうが、とりわけ機械と人間とのインタラクションということを考える時には、こうした理解が非常に重要であるとぼくには思えるのである。そして明日パフォーマンスを行う3組のアーティストたちは、それぞれ独自のやり方でこうした意味の「インタラクション」を出現させようと試みているのだと、ぼくは解釈しているのである。
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