「共通番号制度」、いわゆる「マイナンバー」の導入に向けた法案が、先月はじめ政府で閣議決定された。表向きには納税や年金の情報などを管理するための「便宜」がうたわれている。もちろん、ふつうの意味では便利にはなることは間違いない。だが同時に、国家による個人情報の一元的な管理を心配する人もいる。また、そうした情報が第三者に悪用される危険を指摘する人もいる。
そうした懸念は、もちろん現実的な状況を考えれば理由のあることである。だが、そうした危険があるからといって情報の統合的管理という流れそのものを止められるのかというと、それはできない。なぜなら、原理的に考えてみると、すべての人間を情報として一元的に管理するという趨勢は、私たちが現在の文明の基本的な方向性を維持しているかぎり、絶対に避けることのできないものだからである。
とはいえオーウェルの『1984』のような、国家による個人の徹底的な管理・支配というディストピアはもはやありえない。1984 年はすでに過去であり、「ビッグ・ブラザー」は古い想像力の産物である(その種の反復される物語は、むしろ懐古的・ロマン主義的な「ガス抜き」としてだけ役立っている)。近代国家というものは古い体制であり、情報ネットワークを支配する能力は乏しい。また犯罪者による情報の漏洩や悪用はもちろんあるだろうが、それは、どんな時代のどんな状況でも起きることである。
では原理的な事態とは何か? それは、わたしたちがこれまで「プライベート」と呼んできたものが、もはや成立していないという事態である。そして、そうなったときでも、もちろん私たちは生きるために何らかの倫理的・美的な基準が必要なのだが、それがどういうものであるかが、まだまったく分かっていないということである。これが、私たちすべてが置かれている原理的事態である。
情報ネットワークの基本論理には「プライベート」という概念はない。「セキュリティ」の確保にこれほど労力を注がなければならないこと自体が、その証拠である。わたしたちは日々「電子メール」を当たり前のように使っているが、それは「メール(郵便)」という名前にゴマ化されているからだ。電子メールは実は郵便などではない。電子空間において「書く」ということは「コピーを作る」ということなのだ。つまりそれは原理的には「プライベート」の破壊、つまり自分自身の秘密を誰にでも見られるようにするという行為なのである。
だから電子メールで「これは誰にも言わないように」とか「このメールは受けとったらすぐに消去してください」などと書くことほど、倒錯したことはない。メールであれ何であれ、電子的情報空間に何かを書き込んだ瞬間、それは潜在的には誰にでも読まれる可能性を持ってしまうのである。電子化された情報は基本的に漏洩する本質をもっているからである。(もちろんぼくは、漏洩が起きないようにセキュリティを強化する努力が無意味だと言っているのではない。ただそうした努力は情報の本質からは発していないもの、スピノザ的な意味で"inadequate"なものだと言いたいだけなのだ。)
さて、それならばなぜ、私たちは書くのだろうか? 秘密の過去や人の悪口、職場や上司への不満、不倫や背信や違法的行為の手がかりを、ネットに書きさえしなければバレなかったかもしれないのに、どうして私たちはみずからすすんでメールやプログに書き、またツイッターやFacebookその他様々なメッセージサービスに、みずから公開してしまうのであろうか?
その理由はおそらく、私たちはすべて、どこか深いところで、「プライベート」というものを憎んでいるからではないだろうか、とぼくは思う。電子的情報技術とは、この「無意識」を解放して、それに形を与えるものなのである。だから、そうしたネットワーク社会にふさわしい美的・倫理的基準を模索するなら、それは「いかにしてプライバシーを守るか」という課題から出発すべきではない。むしろ「いかにしてプライバシーの破壊を望む私たち自身の欲望と折り合いをつけるか」でなければならない。
そしてそれは究極的には神学的な問い、情報ネットワークという形で現出している一神教的な「神」のごときもの、すなわちつねに私たちのもっとも内密な自己を照らしだし、すべてを見、すべてを明らかにしてしまうような時空を越えた存在から発せられる次のような言葉と、どう折り合いをつければいいのか、という問いに帰着するのである。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。」(「イザヤ書」41章10節)