いまさら言うまでもないことであるが、日本語の世界というのは、かなりデカいのである。日本語を母語とする話者の人口は1億2500万人であり、言語の中では世界第9位である。それなのに日本人の多くは実感として、日本語は世界のごく一部でしか通用しない特殊な言語であるかのように感じている。それは、英語やスペイン語の場合と異なって、日本語の母語話者が日本という特定国家の中に集中しているからである。
これだけの数の母語話者がいるということは、日本語で書いたものを読んでくれる十分な数の読者がおり、日本語だけを話す人にとっても、ちゃんとそれなりの仕事が供給されているということである。これが、日本人が英語を話さない最大の理由である。能力の問題でも、シャイネスのためでもない。話せないのではなく、話す必要がないのである。ほとんどの人にとって英語とは、話せればカッコいいが話せなくてもそれほど困らない、いわばアクセサリーみたいなものなのだ。だから、初歩的な英語コミュニケーションの習得を売り物にする商品や教育産業には、常に膨大な市場が存在する。
実用品ではなくアクセサリーだから、機能よりも美的価値が優先されるのは当然である。日本で「正しい英語」と呼ばれているものは、実は「美しい英語」のことであり、その「美しさ」の正体は、イギリスや北米圏の支配的階層の話す英語に近いという意味である。そのため日本人同士で英語を話すような場合に、発音や語法においてどちらがその規範(「ネイティヴ」などと呼ばれることもある)に近いかを競い合い、牽制しあうような、奇妙な抑圧的状況が生じることもある。流暢に英語を話す帰国子女がイジメられたりするのも、そうした心性の裏返しである。
出版物を日英バイリンガルにしたり、大学の授業を英語で行なうべきだというような主張の多くも、基本的にはアクセサリーとしての英語から発想されている。そのアクセサリーは誰に見せるためのものなのかというと、もちろん他の日本人に見せるためである(日本の外では英語はアクセサリーとしての意味を持たない)。もちろん、出版物が日英両方の言語で出版されたり、授業を英語で行うこと、それら自体はよいことである、とぼくは思っている。ただしそれは、その出版物が本当に日本語の世界の「外」に届き、その授業が本当に英語で行う必要性を充たしているならばの話である。
残念ながら、日本語出版物の英語版のほとんどは、非日本語話者には届いていない。その理由は、オリジナルの日本語のテクストが、あまりにも日本固有のコンテクストに依存して書かれているからである(固有のコンテクストが存在しない学術論文や、コンテクスト自体が関心の対象となる文学作品などはもちろん別である)。わたしの知人にも有能な英語への翻訳者がいるが、彼らはできるかぎり忠実にそうした日本語を英語に移そうと努力する。だが彼らが有能で誠実であればあるほど、出来上がった英文は、たしかに英語ではあるのだが結局何が言いたいのか分からない、不思議にエキゾチックな詩みたいなものになる。そういう翻訳でも、英語にすれば国際化したことになると考えている依頼人を満足させることはできる。だがこの考えは大きな誤りである。
大学に英語の授業を増やそうというのも、似たような誤った考えから発している。こちらはテクストの翻訳よりも実現はもっと大変で、たいていの場合は英語話者の教員を大量に雇用するというような結果になる。しかしこれではそもそも日本の大学を英語化したことにはならないから、ようするに何がしたいのか分からない。
英語化=国際化というのが根本的に間違っているのである。なぜかというと、そうした「英語化」は、日本語の「外」の世界を志向して行われているのではなく、実は日本国内に向けて行われているからだ。「国際化」のために出版物や教育を英語化するというのは、日本語の世界の中でのみ意味を持つ行為、つまり他の日本人に向けて「うちはこんなに国際化していますよ」ということをアピールする手段にほかならないのであり、ドメスティックな、あまりにドメスティックな振る舞いなのである。
このことは、そうした「英語化」を躍起になって推進している人たちが、作られた英語のクオリティにほとんど関心を持っていないことをみれば明白である。英語版が日本という文脈を共有しない人にも届く内容になっているかどうか、ちゃんと確認しようとする人は少ない。高い金を払って翻訳業者に発注したから大丈夫だろうくらいに思っている。もし本当に日本語の「外」を志向しているなら、たとえ自分には英語読解力がなくても、信用のおける英語の読み手に、理解できるかどうか、たとえ通訳を介してでもたずねてみたくなるはずである。
それでは何が国際化なのか?とたずねられたら、それは自分の属している共同体固有のコンテキストを離れてものを考え、書こうとする意志を持つことであり、それでしかありえない、とぼくは答えるだろう。それが、みずから英語でできる人はやればよい。けれどもたとえ日本語で話したり書いたりする場合でも、自分の身の回りにある暗黙の了解事項を用いず、慣れ親しんだ思考の習慣を疑い、そうした了解や習慣を共有しない他者を思いつつ発せられた言葉は、ちゃんと届くのである。明晰に考え、書くとはそういうことなのだ。用いられる言語が英語かそうでないかは、小さな問題である。なぜなら、本気で日本の「外」を意識して発話され、「外」にとって有効な情報を含んでいる言説であれば、それを英語へと翻訳するのは比較的やさしい仕事であり、しかもその能力をもつ人にとって、やりがいのある楽しい仕事でもあるからだ。