たまたまスペインのビルバオで博士論文公開試問の審査員という仕事に呼んでもらったので、帰りにドイツのカッセルまで脚をのばし「ドクメンタ13」を見学した。
今回のドクメンタは多くの人が「面白い」と言っている。それもあってか、また閉幕間際という時期のためか、これまでのドクメンタ訪問ではついぞ見たことのないほど、たくさんの観客と長蛇の列を見た。
「面白い」は美的判断である。だがその内実は、ひと言では定義できない。
人は名状しがたい衝撃を受けたとき、他に言葉を選ぶすべもなく思わず「面白い」とつぶやいてしまう、というような場合も確かにある。こういう「面白い」は、声が震えている。
かつて『美術フォーラム21』という雑誌に、「おもしろい」を関西弁の「おもろい」と比較しながら考察するエッセイを寄稿したことがある。その趣旨はひとことで言うと、「おもろい」の方がどちらかというとヤケクソで、それに対して「おもしろい」は比較的安定した、ある種の上から目線に支えられている、といったようなことだ。
まあ、こんな風に関西の「おもろい」を持ち上げるのはタイガースファンみたいなことでどうでもいいのだが、重要なのは上から目線の「面白い」の内実が、実は「分かりやすい」「楽しめる」「多様性がある」等々といった判断から構成されており、震えのない安定した声に支えられているということだ。
そしてこの意味での「面白い」が、今は幅をきかせていることもたしかである。なぜならそういう意味で「面白い」作品や展覧会は、展評も書きやすく、成果も示しやすく、したがって予算も獲得しやすいからである。この「面白い」とははっきり言えば「商売になる」ということである。
しかしぼくは、たとえばヨゼフ・ボイスの作品をそのような意味で「面白い」と思って見たことは一度もない。ぼくがボイスを「面白い」と言うときは前者の意味である。つまりその中心には何とも言いようのない異物感があり、だから正直何と言っていいのか困ってしまうのだが、しかし他の人に軽んじてほしくないので「面白い」とあえて断言する、ということだ。当然、その声は震えている。
分かりやすく楽しめる作品満載の美術展がいけないと言っているのではもちろんない。それどころか今日、美術を何らかの生業とするためには、そうした作品や展覧会を作り出せるかどうかは死活問題だ。
だが人が美術を「面白い」と言うとき、そこにはどんなに僅かにせよ、言葉にならない異物性、既存のシステムに回収不可能な剰余、「非‐意味」といった側面が含まれているはずなのである。それがなければ、そもそも美術は美術ではない。そして批評はもっぱらそれを目指して語るべきなのである。