夏なので、ひとつ夏らしい話でもしてみるか。つまり「幽霊」についての話である。
先日 Twitter にも書いたことだが、ぼくは「幽霊」とわりと親しい。といっても、霊能者であるという意味ではない。幽霊が存在しても別に平気であるという、たんにそれだけの意味である。別にその存在を否定しようとも、肯定しようとも思わない。霊の存在を熱心に主張する人もいるが、それは逆に霊を躍起になって否定しようとする人と、あんまり変わらないようにぼくには見える。変わらないというのは、両者とも幽霊の存在を気にしすぎているという点においてである。
いわゆる「超能力」というものに対しても同じ態度をとってきた。オウム真理教がまだ「地下鉄サリン事件」などを起こす前、教祖の麻原彰晃が書いた本が一部で話題になっていて、ぼくはその頃勤めていた神戸の大学で、ある学生からその本を見せられて「先生は超能力についてどう思いますか?」と聞かれたので、講義で話題にしたことがある。
その時の話の趣旨は、「別に騒ぐようなことではない」というものである。その本に書かれていた麻原の「超能力」というのは後に有名になる「空中浮遊」だが、空中浮遊といっても瞑想状態で数十センチ浮くというだけのことである。そんな能力が何の役に立つのか?とぼくは言った。スプーンを曲げたり折ったりするやつもあるけど、それがどうしたのか。『信貴山縁起絵巻』に出てくる命蓮の霊力とか、役行者や弘法大師の行った奇跡に比べたら、あまりにもセコい手品の出来損ないではないか。
そうした昨今のいわゆる「超能力」に共通する特徴は、それらがみんな物理の実験に似ているということである。歴史上の偉大な超能力者たちが行ったことが、それ自体によって人々の迷妄を打破したり苦難を救済するような事績であったのに対して、現代の「超能力」なるものは、「今の科学では説明できないことがある」といったどうでもいいような事しか主張できず、しかもそのためにみずから科学を偽装するような振るまいをする。
さて「幽霊」だが、これもよく考えてみると、大袈裟に問題化するようなことでは全然ないのである。なぜなら幽霊というのは、それを視る人にとってしか意味がないからだ。けれども、おそらくだからこそ、人はそれを自分だけの中に収めておくことにたえられず、なんとかその経験を他の人と共有しようとするのかもしれない。そしてそこから、ありとあらゆる噂やデマが生じる。それらはすべて、人々がそれらを信じている(と人々が信じている)かぎりにおいてしか、存在しえないものである。
さて暗闇の消滅した現代において「幽霊」が出没する最たる場所はどこかといえば、それは「ネット」である。ネットに書かれた情報は(それは本当は「書かれている」ものではなく電子的な信号がある形をとって見えているだけなのだが)、基本的には、わざわざそれを見に行く人にとってしか意味をもたない。掲示板やプログやツイッターで自分が中傷されたりあらぬ噂を立てられたとしても、見なければ、そんなものはほとんど無いも同然なのである。
こんなことを書いているのは、実は今かかわっている仕事の関係で、ある人を会議に招待しようとしたところ、その人にはこういう噂があるので、といったことを理由に主催者側が強い抵抗を示したからである。そして当の「噂」の出所は、テレビでも新聞でも週刊誌でもなくて、主にはネットなのである。ぼくはこうしてブログを書いたりツイッターもしているけれど、読むことはほとんどない(ツイッターも画面に見えているタイムラインしか読まないし、未知の人からのコメントもほとんど読まない)ので、最初そうしたことの重要性がそもそも理解できなかった。学生でもオタクでもない大人の人々が想像以上に多くの時間をネットに費やし、しかもそれに決定的な影響を受けていることを知って驚いたのである。
ぼくは何も、テレビや新聞のような伝統的なマスメディアの方が現実を反映しており、ネットの情報はしょせん信用がおけないなどと言いたいわけではない。ネットにはまだ未開拓の大きな可能性がある。ただ、ネットは原理的に「幽霊」的な本質を持っており、それを従来のマスメディアと同じように扱うことはできないと言いたいのだ。幽霊的な情報は、自分からそれを見、語るかぎりにおいてのみ意味を持つのであって、そうした行為から独立してどこかに「存在している」わけではない。幽霊をめぐる古今の夥しい説話が教えるのは、幽霊を生身の人間であるのように扱うとかならず災いを呼ぶということである。幽霊は幽霊として付き合ってあげるべきなのだが、私たちはまだそのやり方をよく知らないのだ。