8月20日から23日、学生たち3人と新潟県越後妻有のアートトリエンナーレを見学した。2000年のスタート以来、ぼくはこれで3回訪れている。トリエンナーレ自体今回が4回目なので、一回(2006年)を除き、すべて観ていることになる。学生たちと一緒に行くのは今回はじめてだ。
芸術学の先生なので現代美術の研究のために行くのだろうと思う人もいるかもしれないが、実はあんまりそうではないのである。今回はどんな作品が新しく招待されたのかなどそれほど熱心にチェックしていないし、すでによく知っている作品も少なくない。カバコフの棚田や、タレルやアブラモヴィッチや塩田千春の「家」や、ボルタンスキーの小学校などが、今回も新潟の里山の風景の中に存在していることを確認する。3年ぶりに会いに行く、というような感じである。
なぜ行きたくなるのだろうかと考えてみると、逆説的なことだが、とんでもなく時間がかかるということがある。特に関西からは、特急電車を乗り継いでも十日町まで5時間近くかかる。作品は十日町市、川西町、津南町、中里村、松代町、松之山町の6市町村、762平方キロ(京都市全体より一回り小さいくらいの広さ)に分散している。これを自転車で見学する強者も中にはいるが、多くの人は現地でレンタカーを調達する。ぼくも毎回そうしている。
そして毎回そうなのだが、2日目の午後くらいになると、移動距離と蒸し暑さとで頭がボーッとしてきて、自分がいったいここに何をしに来たのか分からなくなる瞬間がある。この感覚が、かなり魅力的なのである。道ばたに立てられた夥しい数の幟や、道路情報を示す電光掲示板にも時折「大地の芸術祭」と表示されるので、ああまたこれを観に来てるんだと思い出すのだが。
「大地の芸術祭」と書くと、美術系の催しには普通みられない、まるで「収穫祭」みたいな堂々とした字面になる。この芸術祭の特徴を説明する文章も、少なくともその表層においては、都市化、テクノロジー、効率主義に支配された現代文明への反省、といった印象が強い。そのため作品の中にも、きわめて素朴に「エコ」的な内容をもつものも少なくない。
だが、「エコ」的なメッセージを素朴に発しているような作品ほど、この「大地の芸術祭」においては、実はおさまりが悪い。なぜなら、それらはこの芸術祭における「大地」というものがそもそもどういう概念であるかを、理解していないからである。
いうまでもなく、このような芸術祭が可能になるためには、交通量の極めて少ない地域にまで張り巡らされた、広範な道路網が存在する必要がある。また、GPSによる位置定位を利用したナビゲーション・システムが車に搭載されていなければ、見知らぬ土地で多くの目的地を巡って走行するのはきわめて困難だろう。そして、時間がかかるとは言ったが関西からわずか5時間で新潟に行ける事自体、世界的な基準からすれば驚異的なことである。
つまり「大地の芸術祭」のようなものは、容赦のない地域開発と極めて高度なテクノロジーによってはじめて可能になる出来事なのである。けっして皮肉なことを言っているのではない。それはちょうど、ジェームズ・ラブロックが1960年代に提唱した「ガイア」(生命体としての地球)のような概念が、衛星上から地球を眺めた経験によって可能になっているのと同じである。「大地」とは、技術の彼方から起動するプログラムにほかならない。それは素朴な概念ではなく、ハイブリッドな概念である。そのことは当然であり、常にそこから出発する必要がある。
越後妻有トリエンナーレのようなイベントは、今後も続いて行けばいいとぼくは思う。けれどもそのためには、「文明と自然」「都市と里山」等々といったロマンティックな対立にとらわれることなく、「大地」や「地球」について語る新しい方法を開発してゆくことが必要である。それら近代的な二項対立はもうとっくに賞味期限が切れており、私たちの自由な思考を促すというよりもそれを著しく拘束しているからだ。「大地」は、まだ私たちにその姿を開示していないのである。