昨日(1月23日)は同志社大学の学部講義「現代芸術論」の最終日だった。これまで3年間、非常勤講師(「嘱託講師」と同志社大学では呼ぶ)として担当してきたが、3年が任期ということで、昨日が最後の授業である。これまでも最後の日は授業中に課題を与えてその場でレポートを書く試験をしてきたので、昨日もそのようにした。しかし、これまでと全く同じではつまらないので、講義の始まる30分前に以下のようなことを考えた。
この3年間の同志社の講義ではこれまで2回、出張などで急に来られなくなった時ツイッターを用いた授業を行った。出席している学生たちやその周辺ではけっこう盛り上がったが、反面、ツイッター講義とは何事だ、大学を何と心得る!というような(まったく知らない人からの)非難もあった。それで、今回は最後なので、ついでに試験もツイッター上で公開してしまえばどうかと考えた。課題を、実世界での試験とまったく同じ時間にツイッター上で公開する。その目的は何よりも、教室で試験を受けている学生たちが、何千人もの人たちが同時に同じ課題を目にしているという状況を作ることで、緊張感をもって解答できると思ったからである。
この直前の思いつきは大正解で、試験時間中も例年に増して教室の熱気を感じたが、出てきた解答も一生懸命考えていることが分かる、なかなかの力作ばかりであった。ちなみに課題は次のようなものである。「あなたは絶対権力を与えられた、この国の指導者である。その時、あなたは「芸術」にどのような意味を与え、自分の国家の中に位置付けるか? 理念及び具体的な施策について述べよ。」解答時間は70分である。
芸術をもっとカジュアルなものにする、芸術の授業を増やす、無駄なことをするのを義務づける、橋下徹を即解任する、等々、いろいろ提案があった。ただあえて言うなら、みんな穏当な意見で、せっかく「絶対権力」を与えているのに、「国の究極的な芸術シンボルとして、富士山と同じ大きさのピラミッド型施設を建設し、内部には災害時にすべての国民が非難できる収容スペースがあり、壁面の陽の当たる側は太陽光パネル、それ以外は液晶パネルで夜はそこに日本のマンガやアニメーションが、衛星軌道上からも見える大きさで上映される。この施設を建造する公共事業によって雇用問題はすべて解決される」なんてのは無かった(別にそういうのがいいと言っているわけではないが)。
ツイッター上でもいろいろ反応があり、多すぎて個々には答えられなかったが、芸術は国家や権力とはまったく別次元のものではないのですか?という趣旨の意見も少なくなかった。ぼくはそうは思わない。芸術が政治権力からは自由な、ピュアな自己表現の活動であるといった通念こそ、近代国家がまさに必要としてきた芸術観だからである。とはいえ「自由」を考えること自体は大切である。国家装置の中に生きているかぎり「自由」などないのだというシニシズムもまた、国家装置の一部だからだ。「ピュアな自己表現」VS.「すべてはイデオロギー」というペアもまた、近代という紅白歌合戦の定番出場者にほかなからない。どんなに徹底した生政治的支配からも逸脱する可能性は必ずある。
ぼく自身の解答が聞きたいという意見もあった。では言おう。もし自分が独裁的指導者であったら、芸術をひとつの「月」として制定する。一年のうち1ヶ月、その「芸術月」には、全国民はふだんと対極的な仕事に従事する。大企業の幹部は地方都市の商店街で働き、霞ヶ関の官僚たちは農家で田植えをし、国会議員はコンビニの店員になり、大学教授は荒れてる中学の教壇に立ち、文部科学大臣はセンター試験の監督をする。1ヶ月だけでもそうすればだいぶリフレッシュできるのではないだろうか。
出題者が言うとこれが模範解答みたいに聞こえるが、まったくのダメ解答だと思う。出題者自身がダメ解答しか書けないような問題がこの世には存在する。「芸術」をめぐる事柄はそのひとつである。そのことを認めるのが成熟した良い国家であることだけは確かである。