断食という話題は何というか、ツボらしい。
昨年末の「現代メディア論」(京都市立芸術大学)集中講義で断食経験のことを話したら、その後、いくつか強烈な反応があった。そのことは講義で話している最中から少なからず感じてはいた。マクルーハン思想の解説から断食の話題に移った瞬間(なぜマクルーハンから断食になるのかは不明)、突然、昆虫の触覚にふれたかのように何人かの学生が、眠たそうな顔をガバと上げて聞き耳をたて始めたのだ。そして年明けの最後の講義では、ぼくが実行した方法に従って断食を実行してみましたと報告する子すら現れた。よりによって年末年始に断食。何一つ薦めたわけでもないのに。
言っておくが断食は、むやみに実行するのは危険である。もしやるなら、十分な医学的根拠をもった、信頼できる方法に従ってやらないといけない。ぼく自身が断食を試みたのはもう十数年も前だが、このブログの「自愛について」という文章で紹介した甲田光雄先生の著書に従ってやった。それは完全な断食ではなくて、昆布と干し椎茸から取った暖かいスマシ汁を一日一回飲み(すごく美味しい)、後は塩と黒砂糖で基礎的な量の塩分と糖分を摂るという方法である。でも水分だけなので消化管の中は空っぽになり、血糖値も血圧も極度に低くなる。
断食の最中というのは不思議なことに、まったく空腹感を感じない。ただ、諸々の感覚が非常に鋭敏になり、ふだん気づかないような微妙な音や、空の色の変化に気づくようになる。強い刺激が耐えられなくなって、テレビも観られなくなり、本は読めるが、雑誌や新聞などは読む気がしなくなり、大音量の音楽も聴けなくなる。だが苦痛はまったくなく、食べたいと思う気持ちも起こらない。食べたい気持ちはむしろその前後、つまりゆっくりと食事を減らしていく前段階と、断食の後また少しずつ増やしてゆく回復期に感じる。
断食とは空腹をガマンすることではない、というのが、ぼくにとって最大の発見であった。ガマンすることは、むしろ共同体に所属する楽しさだ。みんなでガマンするから楽しいのである。イスラム教のラマダンは「断食月」と言われるが、あれは本当の断食ではなく、夜になったら思い切り食べるのだから、まあ一種のお祭りである。世界中で何億人ものイスラム教徒が、同じ時に同じ事をしていると思えば、それは楽しいだろう。たとえば日本のお盆の里帰りで「いやー高速が5時間も渋滞して大変だったよ」なんてことをうれしそうに言い合う楽しさと同じだ。集団で同じ不便さを経験するのは、盛り上がるのである。
それに対して断食は、そういうこととはまったく違う。いわばこの世の中でたった一人になるという経験である。本当に一人になると「ガマンする」ということがほとんど意味をもたなくなる。甲田先生は長年の断食療法の経験から、「ガマンするぐらいなら食べた方がまし」とおっしゃっていた。断食療法の指導をしていると、ダイエット目的の若い娘たちとメタボで切羽詰まったオジさんたちが「この断食が終わったらあの店も行こう、これも食べよう」などと言い合って盛り上がるのだそうだ。そんな妄想が出るなら断食は悪影響しか及ぼさないので、やめた方がいい。
芸術と断食。まず思い浮かぶのは、バウハウスの教師としてグロピウスが招聘したスイス人芸術家ヨハネス・イッテンである。ぼくはこの修道士めいた男が嫌いだ。かれこそは、芸術にとっての断食に関して、間違った精神主義を広めることになった張本人のひとりではなかろうかと思う。武士道とか軍国主義時代の日本でも、断食が心を鍛えるために奨励されてきたみたいだが、断食というのはそもそも、精神主義ではダメだと思う。断食とは徹底的に唯物論的・生理学的な過程として考えられるべきである。もしもそのことを認識した上で芸大のカリキュラムに組み込むことができるのなら、21世紀のバウハウスが可能かも知れない。