領家町まつりによせた、ぬーちゃんからのメッセージ
(月刊『ヌートリアまわり通信』2014年・春【号外】に掲載)
おもえばとおくきたもんや。
いくさく(1939)るしい二次たいせん、ヒとらーがソれんとつるんでポーらんどビビらせとったそのとしに、うちらのせんぞはフらんすからおふねにのって、はるばるにほんにつきました。せんそうのくもゆきあやしいこんなおり、かいがいりょこうてゆうがなごみぶんやなて、じょうだんやあれへんで。うちらがつれてこられたんは、にっぽんのぐんじんさんがせんそうで寒ないように、けがわのこーと、ぎょうさんつくるためやがな。産めよふやせよでふやされて、おくにのために皮はがされて、りっぱにおやくにたちました。
それからろくねん暑いなつ、「すまんなせんそう負けてもたわ」て、らじおでへいかがいわはって、へいわになったはええけれど、くいもんきるもん底ついて、これからどないなるんやろ、もうヌーとりあ飼うてるどころやあれへん、どうせあんたらのけがわ安もんでうれへんし、放したげるよってどこなと行き、いわれてうちらは野性化しました。ほしたらこんどは、せいたいけいをみだす外来しゅ、はたけをあらす害じゅうや言われて、くじょされるはめになったんやけど、そこはけだもんのすばしこさ、なんとかかくれてにげまわって、いのちをつないでまいりました。
ときはながれてにせんねん、めでぃあとげいじゅつでおもろいことやりましょ、ゆうてがんばったはる IAMAS に、きょうとからよしおかせんせがきやはって、こんどおおがきでひらくめでぃああーとのおまつりに、なんかええなまえなかいな、ゆうてかいぎしたはるとき、さっきょくかのみわせんせが、そら〈ぬーとりあまつり〉しか考えられへんでしょゆうて提案しはって、ほかのひとらもそらええ、おもろいてゆうてくれはったときには、うちらもう、うれしゅうてなみだがちょちょびれました。
けっきょくなまえは〈おおがきびえんなーれ〉ゆうことにきまって、〈ぬーとりあまつり〉にはなれへんかったんやけど、かわいそやさかい、がくないのめーるまがじんに、れんさいもたせたげましょ、ゆうことになって、たしか「ぬーちゃん語録」ゆうもんがはじまったんです。しーえむしーのふーやんさん、こばちゃんさんにはよおかわいがってもろて、すきなことかかせていただいて、ほんまにええめぇみさせいもらいました。
ときはうつって、いつしか IAMAS よこのすいろも、せいびされて草むらものうなって、すみにくなったなあおもてたら、しーえむしーもなくなって、よしおかせんせもおらんようにならはって、そろそろうちもねんぐのおさめどきかいな、てかくごしてたら、ふくもりさんが「ヌートリアまわりつうしん」ゆうけっこうなもんをはじめてくれはって、そこでまたぬーちゃんれんさい持ったらええがな、ぬーちゃんのすきなドラマとマンガのはなしまいつき書いてえなて、まことにありがたいおことば、おかげできょうまでやってこられました。
おもえばとおくきたもんや…。
かんがいにふけるまもなく IAMAS が、こんどはながねんすみなれた、りょうけちょうをあとにして、そふとぴあちくにいてんする、ゆうやないかいな。ゆくかわのながれはたえずして、しかももとのみずにあらず。しょぎょうむじょう諸法無我、あーめんそーめんなむあみだぶつ。そやけどまだまだ死なへんで。うちらにしたら、さらにすみにくいかんきょうになるんやろけど、そこはみなでちえ出しおうて、なんとかやっていきますわ。どーんとうぉりーや、どんとこいや。ひっこししたかて、かめへん、かめへん。え? いみわからんてか? 「かめへん」ゆうのは「かまいません」…あーやっぱしひょうじゅん語はじんましん出るわー。
思てましたらふくもりさんが、むかしの江戸の判じもんで「かまわぬ」ゆうのんどやゆうて、おしえてくれはった。なるほど、いきなもんですなあ。かぶきやくしゃの七だいめ市かわ団じゅろはんが、ぶたいでおめしになってから、えらいはやった意匠やそうな。うちらもこれからは「みやび」と「はんなり」だけやのおて、「いき」もこころがけつつ精進させてもらいますよって、こんごともみなさん、すみからすみまでずずずいーと、よろしゅうおたのみもうします。
最近のコメント