2013ねん8がつ
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ぬーちゃんの〈ドぐらマぐら〉 その41 『LIFE のなかの LIFE』
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たしかにドラマはフィクション、つまりうそや。けどそれにたいしてほんもんの LIFE と言われてるもんも、どこがほんもんなんか、考えてみたらようわからん。きのう、むかしの偉大な演歌歌手の藤圭子はんが、いっしょに住んではった男のマンションからとびおりて死なはった。ヌー界では国葬になります。まだ亡くなるようなお年やないのに、なにがあったんか、いろいろ言われますやろうけど、ほんまのとこは最後までわからんやろな。げいのうじんやのうても、人生ちゅうのんは多かれすくなかれさいごまで謎や。つまり、ほんまがうそから区別でけへん、その意味では人生とドラマにはっきりした境界はのうて、人生はドラマでドラマも LIFE なんや。
ちがいは何かゆうたら、その長さだけかもしれへん。人生はふつうドラマよりながい。ゆうたらドラマちゅうのんは、より長い LIFE のなかにうめこまれたより短い LIFE いうことや。むかしは、このみじかい方の LIFE には定位置があった。つまりテレビドラマゆうもんはある地域の、ある時間帯にしかみられへんかった。そやから人気のあるドラマの時間には銭湯がからっぽになったもんや。朝ドラゆう考え方もその時代のもんで、ドラマのないよう以前に、そもそも毎朝15ふんずつドラマみるゆう発想じたいがすごいです。LIFE のなかにちょびっとずつ短い LIFE を埋め込んで、日曜はおやすみするて、どういうことやろ。リアリティゆうのんは、部分的なフィクションどうしの間を往き来する、その往還の運動にほかならん、ということなんやろか。
こうゆう観点からするとネット環境は、長い LIFE と短い LIFE との関係を劇的に変えましたわな。いまヌー界では、テレビがのうてもドラマがみれる Hulu ちゅうもんが流行ってるんやけど、月々わずかなお金はろたらドラマやら映画やらが、いつでもどこでもみられる、つまり長い LIFE における短い LIFE の定位置ゆうもんが、もうなくなったゆうことです。通信環境に応じて自動的に画質調整とかでけて、 iPad の3G でもけっこうみれる。ちょうど1980年代に Walkman が、録楽(みわせんせに敬意をはろて音楽とは言わん)を、世界にダダ漏れにしてしもたみたいに、Hulu は物語を人生にダダ漏れにしてまう、そうゆうシステムや。
そのけっか、何が起こるか? いつでもどこでもドラマみられるやなんて、べんりな世の中になりましたなあ、だけではすまされへんで。だいじなことは、フィクションとリアリティの関係が変わるゆうことやないやろか。フィクションとリアリティのあいだに境界線をひくことも、逆にすべてはフィクションや!ゆうような考え方ももう成り立たんようになって、フィクションを通してリアリティが知覚される、ゆめがうつつかうつつがゆめか、ゆうような世界になっていく。ゆうたら現実が夢野久作せんせの『ドグラ・マグラ』みたいなもんになっていくゆうことで、うちとしてもこの連載を41かいも続けてきたかいがある、ゆうもんです。ありがたいことですわ。
2013ねん9がつ
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ぬーちゃんの〈ドぐらマぐら〉 その42 『銀行のサムライと霞ヶ関のエディプス』
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こんかいもドラマでひつれいします。
しちょう率ゆうようなことでゆうたら、こないだおわった『半沢直樹』のこと、ふれんわけにはいかんやろね。この番組、だいめいからして時代劇くさいですけど、これは、ぎんこうに金かしてもらえへんで自殺しはった町工場のおっさんのむすこが、銀行員になって親のかたきとるゆう、にっぽんじんがいちばんすきな、かたき討ちのお話ですわ。ちゃんばらで命のやりとりするかわりに、お金うごかしてたたかうんやけど、やってることはおんなじや。時代劇のおやくそくとして、親のかたきは強ないとあかん。しゅじんこうはあんまり頭よおないけど一途なぼんでないとあかん。嫁はんは、夫が仇討ちみたいなしょうもないことにうつつ抜かしてても文句も言わん、ようでけた妻でないとあかん。それから見事うちはたしたら、忠臣蔵といっしょで、めでたしめでたしではなしに、お上からハラキリを命じられなあかん。銀行やから切腹やのおて出向やけどね。このドラマ、にんきのひみつは会社やらお役所やらに勤めてはる視聴者のみなさんが、こういうことあるある、こういう上司おるおるゆうて、共感してみてはるからやけど、それは何をいみしてるかゆうたら、このお国は21せいきになっても、仕事のせかいはおっさんの時代劇やゆうことです。おなごが社会進出しようが、グローバル化がすすもうが、時代劇という本質はかわらん。おそろしいことですわな。ええのんか悪いんか、うちにはようわかりません。とにかく、テレビドラマの真骨頂であるチャンバラ時代劇は不滅や、ゆうことや。
かわらんゆうたら、父と息子の確執ゆうテーマも、ソフォクレスの『オイディプス王』いらい、ドラマをうごかす普遍的なエンジンのひとつですわな。いまの世の中、むかしみたいに横暴でこわいオヤジもおらんようになったし、子どもの方もいまは、反抗期ちゅうようなもんはなくなったとか、ええかげんなしゃかい学者や発達心理学者はゆうてはるけど、なかなか、ひょうめんてきなケンカやら暴力がみえんようになかったからゆうて、オヤジと息子の間のたたかいは、そうかんたんになくなるもんやない。表向きは仲ようしてるさかい、よけいたちわるいぐらいのもんですわ。ドラマでゆうたら、大石静の『ガラスの家』やね。こっちは銀行やのうて役人のせかいで、オヤジは財務省主計局長で事務次官を狙うてる高級官僚、わかいときに奥さん飛行機事故でなくさはって、息子2人を育てながらくらしてきはった。できのええ長男もおとんと同じように東大出て財務省に入りよるんやけど、若いさかい理想主義でオヤジとは対立する。なんぼ父子家庭やったゆうても、ええ年したおっさんと、とっくに大人になった息子ふたりが同居してるゆうのんが、なんともむさ苦しいて気持ち悪いんやけど、そこにオヤジが後妻にもろた若い女(井川遙)がきよって、それに長男のほうが懸想しよって、夜いまとなりのへやでオヤジと若いヨメが真っ最中やないやろかとかとか、オヤジはオヤジでおのが息子の若さに嫉妬したり、もう財務官僚がふたりもそろて思春期の中学生の妄想みたいなことになって、家のなかがごちゃごちゃゴチャゴチャするのんを、のぞき見するゆうような趣向や。これもまあ、あんまし上等な趣味やあらへんけど、ある意味テレビドラマの真骨頂ですわな。
『半沢直樹』(TBS)
http://www.tbs.co.jp/hanzawa_naoki/
『ガラスの家』(NHK)火曜22:00〜
http://www.nhk.or.jp/drama10/glass/
2013ねん10がつ
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2. ぬーちゃんの〈ドぐらマぐら〉 その43 『ごちそうさん』
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NHKの秋からの朝ドラ、やりにくいやろなぁ、そらあの「あまちゃん」の後やもんね。
そやけどぬー界では、評判はけっしてわるうはない。ようがんばったはる、朝ドラはこうゆうのんやないとあかん、ゆう意見もでてました。ていうか、そもそも「朝ドラ」ちゅうもんは何か? てゆう、こんぽんてきな議論がおこりましたんや。
たしかに「あまちゃん」はようでけてた。きゃくほんはおもろいし、まいかい意表をつくネタがあったし、時代ひひょう的なするどさもあったし、ひろいんはふたりともかいらしいし、わきやくもおもろいし、80年代アイドル文化にたいする惜しみない回顧と、いまの芸能界についての自己言及的な批評性もあったし、地震とつなみもちゃんと描いてるし、何よりキョンキョンと薬師丸ひろ子がきょうえんしてはるし、ゆうことで、ぜいたくというか、もうしぶんないというか、朝ドラにはもったいないくらいおもろいドラマやったんやけど…。
問題は、まさにそこや。これからかいしゃやら学校にいこかゆう、朝の出がけの15分かん、こんなおもろいドラマやったらあかんやろ。これでは、これからはじまる現実の一日が、なんやしょうもないもんにみえてしまうやないですか。NHKの朝ドラゆうのんは、適度におもろうて、適度にあほらしいもんでないとあかん。テレビドラマちゅうもんは、視聴のお方の生活を応援するもんやから、ドラマという分をわきまえなあかんわな。
そこからしたら、こんどの「ごちそうさん」は、食い意地のはった世間知らずの洋食屋のむすめが、ぼくねんじんの書生の青年に懸想するゆう、古典的な少女マンガ設定で、まあゆうたら、NHK朝ドラの王道ゆうてもええ。そのひろいんが杏で、演技はほんま下手くそなんやけど、いっしょうけんめいやってはるのんが、もう痛々しいゆうか、かわいそうでみてられへん。女やのに背えのおっきいのんを気にしてる、ゆう役柄なんやけど、モデルなんやから、もっと身体みせるシーン作ったげたらええのにねえ。
「あまちゃん」で朝ドラは終わった、おもてはる人もいてるやろけど、なかなか、そう簡単には終わらん。終わりそうで終わらん日常ゆうもんが、まさにNHK朝ドラのメッセージやさかいな。
NHK連続テレビ小説「ごちそうさん」 http://www1.nhk.or.jp/gochisosan/
2013ねん11がつ
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ぬーちゃんの〈ドぐらマぐら〉 その44 『マンガとネコの因果なかんけい』
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ひとことで言うたら、ネコはマンガでマンガはネコや。
なにが言いたいかゆうと、この二者は「宵の明星」と「明けの明星」みたいな関係ゆうことです。つまり同一物の二つの現れやということ。このメチャクチャな極論の真理がわかってもらえるやろか。
ネコがマンガやゆういみは、まずネコはマンガのいたるところに登場しよるし、たとえネコの姿が描かれへんときでも、それはマンガ的空間のどっかにおる。そう感じられる。こういうあり方はネコの、世界の傍観者としての存在をあらわしてます。舞台のうえでどんなドラマが繰り広げられても、それをどっかで静かに、ひややかに見とる。それがネコゆうもんや。
マンガがネコやゆう意味は、マンガちゅうもんはそれ自体が独立した文化領域ゆうよりも、文学でも演劇でも美術でも政治でも経済でも教育でもサブカルでも犯罪でも、至るところに出没してはゴロニャーンとすり寄っていいけるんやけど、自分より強い存在になんぼすり寄っても、それに従属しておのれを失うことはない。あれ、どこ行きよったんやろ?思たら、知らーん顔して日向ぼっこしてる。そうゆうもんやからです。
マンガにとうじょうするネコ、それ言い出したらきりないわな。死なはったやまだ紫さんのネコは女の人の心そのものやったし、ますむらひろしの『アタゴオル』に出てきよるヒデヨシは宮沢賢治のうさんくさいアルターエゴやし、ぜんぜんネコに似てへん未来のネコ型ロボットのどらえもんはホフマンの砂男の遠い子孫やし、マイケルちゅう踊るネコはいまYouTubeで世界じゅうに紹介されとる猫踊りの元祖やし、大島弓子の『綿の国星』のチビは現象学的還元によって世界をみる哲学するネコや。
孤独な男子に溺愛されるネコゆうパターンもある。ドラえもんもある種それやし、私屋カヲルの『ちびとぼく』なんかがそうやけど、こうゆうネコの特徴は、だんだんネコであることから離れていくゆうことやね。最近のヒット作でゆうたら、オザキミカの『キミと話がしたいのだ。』に出てくる「くま」は、こらどうみてもネコには見えんわな。独身の青年サラリーマンの話し相手で、ゆうたらSiriみたなもんや。こんなんがおったら男子はいつまでたっても結婚でけへんやろけど、これはもうネコとは違うもんになってしもてる。少子化たいさくのためにも、マンガはネコであることを取り戻さんとあかんのと、ちがうやろか。
2013ねん12がつ
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2. ぬーちゃんの〈ドぐらマぐら〉 その45 『はたらけ、ケンタウロス』
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どらまとまんがといいながら、ここんとこどらまつづきやったさかい、こんかいはぜんかいにひきつづきまんがつづきや。かずあるまんがのなかでも、おのがみのうえからどうしてもけだもんのでてくるおはなにひきつけられるゆうことがありますけど、このさくひんはにんげんとけだもんのあいのこゆうか、いやせいかくにゆうたらあいのこやのおて、けんたうろすちゅうて、むかしのぎりしあしんわにでてくるじょうはんしんにんげんでかはんしんがうまゆうおかたらです。よしおかせんせがおこたちのとき、てれびで『まいてぃはーきゅりー』ちゅうかなだのあにめみてはって、けんたうろすちゅうもんにえらいきょうみもってはったんやけど、そんなきしょくわるいまんがみんとき、ゆうてみせてもらえへんかった、ゆうたはりました。せんせはそれがきっかけでぎりしあてきせかいへのあこがれがつよなったらしいですど、けんたうろすちゅうもんはそれだけにほんではうけいれがたいそんざいやった、ゆうことですわ。
ところがこのまんが、けんたうろすのけんたろう(あほくさ)ゆうしゅじんこうが、にほんのふつうのさらりーまんしゃかいではたらいたはって、わかいどくしんのしんにゅうしゃいんとして、えいぎょうにまわったり、やさしいせんぱいにかわいがられたり(びみょうにBLはいってます)、のみにいったり、あたりまえみたいなにちじょうせいかつをおくってはる。けんたろうだけやのおて、とりひきさきにもけんたうろすのしんしとかいてはって、そのいちぞくはにんげんときょうそんしてる、ゆうせっていやね。そやけどからだはちがうし、だいたいけんたうろすはじゅみょうがなんぜんねんもあるゆうことで、あるじだいのあるくにではたらいたりにんげんとつきおうたりしては、そのじだいがおわってにんげんがしんだら、またあたらしいとこであたらしいにんげんとつきおうていく、ゆうことになってます。
きんだいぶんがくのせかいでは、にちじょうせかいにこうゆうしんわてきどうぶつやら、きめらやら、かいぶつやらでてくるしゅーるなせっていするときは、なんかせかいのききてきなじょうきょうをあらわしてたり、しゃかいやにんげんのおろかさやきみょうさをしにかるにびょうしゃするためのしかけやったり、にんげんそのもののかりかちゅあやったりするもんですかけど、げんだいにほんのさらりーまんのにちじょうしゃかいのまんなかにけんたうろすみたいなもんがでてきても、そのことじたいになんのひひょうてきないみもなく、まるでなにごともなかったかのようにきょうそんしてるゆうのんは、げんだいにほんのまんがならではの、まことにくーるじゃぱんなせかいなんとちがいますやろか。
えすとえむ『はたらけ、ケンタウロス』(リブレ出版)
https://www.libre-pub.co.jp/shop/commodity/00000000/9784862639509/
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