田房永子『母がしんどい』(新人物往来社 2012年)
ドぐらマぐらといいながら、ここんとこドラマ続きでひつれいしましたけど、こんかいはひさしぶりにマンガでおます。まあマンガゆうても、そんなおもしろおかしいもんやない。だいめいにあるとおり、なんとも「しんどい」おはなしですけど、かんにんしてや。
〈おやをもつ〉ゆうことは、ほにゅう類のしゅくめいや。しかしまあ、けだもんのおやこちゅうもんは、たいがいはあっさりしたもんで、いっしょに過ごすねんげつもみじかい。そこからしたらにんげんのお子たち、うちらやったら生まれて死ぬまでぐらいの長いとしつき、おやといっしょにくらさはる。もうええわゆうぐらいいっしょにおったら、なんやかやともんだいが起こるんはあたりまえやけどね。親子の問題でいちばん厄介なもんゆうたら、親が子どものいやがることしながら「あんたのこと思てやったげてるんやで」て言いつづけよる、みたいな、つまり憎しみと愛がいっしょなって身動きとれんようになってまう、いわゆる〈だぶるばいんど〉ゆうやつですわ。
このマンガのさくしゃ田房はんのおかん、むすめをべたかわいがりするかおもたら急にキレておにばばみたいになるさかい、なんちゅう親や思うおひともいてはるやろけど、おかんがそんななったんのは子ぉを〈他者〉として認められへんからで、なんで子どもの他者性を認められへんかゆうたら、親がおのれ自身の他者性を認められへんからです。ほんで、このおかんがなんでそんなにんげんになったかゆうたら、そのひとの親がやっぱりそうやったからで、その親はまたその親が…ゆうようなことや。ゆうたらまあ、「親ガメのせなかに子ガメをのせて〜子ガメの背中に孫ガメのせて〜」みたいな仕掛けやから、このもんだいを解決するには、「親ガメこけたらみなこけた」ゆうのんがいちばんスッキリするんやけど、実時間に不可逆性があれへんこの宇宙では、そないなわけにもいかん。しゃあないさかい、子ガメか孫ガメがどっかでこの呪いのれんさを断ち切らなあかん、ゆうことになります。
それで、この田房はんはマンガにしてまはった。ありがたいこっちゃ。こうゆう、にちじょう的やけど重たいおはなし、しょうせつに書かれたらあんまし読みたないわな。読んだらくらーい気持ちになる。ところが、おんなじことをへたくそなマンガに描くだけで、ちょっとちがう味が出てきよる。これがマンガの功徳ゆうもんやろね。子ぉ産む、ゆうおんなじことを、にんげんみたいにお腹いためて産むか、けだもんみたいにツルッと産むか、いっそ、はちゅう類みたいに卵で産むか、ゆう違いとおんなじや。おのれの人生の問題をマンガに描くゆうのんは、ゆうたら卵で子ぉ産む、みたいなことやろか。今は貫禄ある女優はんにならはった秋吉久美子、むかし妊娠しはったとき「うちは卵で産むで」言わはって話題になりましたけど、こら先見の明ゆうもんやわね。
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