竹宮恵子『風と木の詩』(1976-1984)
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ひょうろん家の四方田犬彦(よもたいぬひこ)ゆうお方がどっかで「レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』と構造主義の全文献とのどっちかひとつ選べ言われたら、私は迷うことなく前者を取る」てなこと書いてはって、なんちゅうエエカッコしいなほめ方やろ思て、うちは読んでておもわず赤面しましたんやけど、竹宮恵子せんせの『風と木の詩』について言われたら、恥ずかしながらうちもおんなじように、少年愛マンガとボーイズラブの全作品を置いて、この一冊を取りますわ。
物語がとくに優れてるとかおもろいとかゆうわけやあらへんで。すじがきとしては、まあしんきくさいはなしや。へんたいの詩人(実はちちおや)に性的ぎゃくたいうけて育った美貌のしょうねんが、しゅういのにんげんを翻弄しながらさいごはジャンキーになって死んでまう、まあそれだけゆうたらそれだけのはなしや。池田理代子の『ベルばら』みたいに壮大な歴史どらまがあるわけでも、萩尾望都の『ポーの一族』みたいに「不死とは何か?」てな哲学てき洞察がかくれとるわけでも、大島弓子の『綿の国ぼし』みたいに種を越境した形而上学的幸福論が求められてるわけでもない。そやのに、小学館フララーコミックスでどうどう17巻におよぶ長編まんがのはじめからおわりまで、じんじょうやない胸騒ぎと知的おーがずむの強度が、一度たりともゆるむことがない。
なんで、こんな読書経験が可能になるんやろか? それはこのさくひんが、「少女まんが」ゆうメディアにせんざいするかのう性を、さいだい限に増幅したもんやからです。これまで多くのひとはこの作品について、ファンタジーではあれ「少年愛」のせかいを描いたもんとか、主人公のジルベール・コクトーがうまれ落ちたしゅくめいと悲劇のものがたりやとか、BLの源流やとか、語ってきはった。そうゆう考えかたはどれもまちごうてるわけやないけど、言わしてもろたら、いちばん大事なポイントを見のがしてますわ。それは、このジルベールちゅうぼんはじつはただの主人公やのおて、読者の「アバター」やゆうこと、つまり、ジルはんは物語中のどの登場人物よりも読者を誘惑してるのであって、このお子の身体を通して、読者は自分自身の性愛のファンタジーと欲動のダイナミズムをけいけんさせられてる、そうゆうことや。
この意味で、これは他のどんなまんがよりも深く教育的な作品とゆうてもええ。手塚治虫の『ふしぎなメルモ』みたいな、表面だけお説教くそうて中身はエッチなだけの性教育マンガとはわけがちがうで。ファンタジーの内部に踏み込まへんかったら、性のもんだいなんてしょせんはアホらしい猥談にすぎひん。性愛のファンタジーの中に踏み込みつつ、なおモラルについて深く洞察しうることが、少女まんがというメディアの「可能性の中心」ちゅうやつや。『風と木の詩』、もお古典とゆうてもええぐらいの作品やさかい、来年度あたりからぜひ、文部科学省検定の修身の教科書にしはったらよろし。日本のみらいは明るおすえ。
竹宮恵子『風と木の詩』 http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/16418.html?dealerid=102
竹宮惠子の公式HP http://tra-pro.com/BD/
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