マンガと前衛 ―つげ義春、髙野文子、西島大介―
この日本というお国のすいなとこは、明治維新いらい、外から来るもんは何にせよありがたいもんや、べんきょうさせてもらいます、ゆう態度をとってきたはったことや。これ一見、けんきょで殊勝なおこころがけとも思えますけど、見方をかえたらこの態度、外から来るもんは所詮がいじんさんのやらはることで、外国文化はうちらにとってけっきょく「ネタ」にすぎん、自分らの内密の生活とは関係ない、そんな傲慢さも、ちらほら垣間みえますわ。
マンガかて、その例外やない。「くーるジャパン」たら言われてもてはやされきたマンガは、手塚治虫さん以来、欧米が日本文化に期待してきた枠組――「近代精神」の重苦しさからは無縁な、ハイテクやのに原始的、大人やのに幼児的で、ぽすともだんで、すーぱーフラットで、「ロスト・イン・トランスレーション」(つまり不可解)で、エキゾチックなぱらだいす――に合致するもんばっかりでした。多くの外人さんは、日本の「前衛」マンガなんてあんまり見たいことない。なんでかゆうたら、「前衛」は欧米になんぼでもあるさかい、日本は「ポップ」と「ポストモダン」を見せとくれやす!――まぁ、にほんじんはそういう外人さんからの要請に、長いこと上手にお答えしてきたわけやね。
そうゆう歴史だんかいも、もう終わりを迎えつつあるのんとちゃいますか?ゆうのんが、ぬー界の政治学者の一致した見解や。これからは日本の「前衛」マンガが、世界に浸透していきますやろ。ゆうたらマンガ界にも、1960年代の"BUTOH"みたいな現象が起こるゆうことや。例えばつげ義春の「ゲンセンカン主人」(1968年)、髙野文子の『病気になったトモコさん」(1987年)、西島大介の『凹村戦争』(2004年)みたいな作品が、今後は世界的なマンガ界、ひいては視覚文化一般に、浸透していくのんとちゃいますか。
「なでしこジャパン」も優勝しておめでたいことやけど、この人らがワールドカップで勝ち進むまで、このお国では女子サッカーなんて話題にしませんでしたわなぁ。マスコミゆうのんはそんなもんで、儲かることがわかってるもんしか取り上げよらん。本来じゃーなりすとの本懐は世間が注目せんことを先駆けて取り上げる勇気にあるんやけど、もうそんな志はこの国のメディアには望めません。そやからテレビやら新聞みたいなもん信用せんと、うちらの言うことを信じなはれ。これから世界が注目するのんは、日本の前衛マンガや。ほんまやで。
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