えぬえーちけーの、あさのどらまで、おやのじじょうで、ふたごのむすめがひきさかれて、かたっぽが、ぎおんのまいこさんとしてそだてられる、ゆうはなしがあるらしいでんな。そのこぉが、おおきなってから、もうかたっぽにさいかいして、ふつうのむすめをうらやましがる、てゆう、ろくでもないせっていや。きしょくわるいきょうとべんは、まあゆるしたげるとして、これでは、ぎおんは、まるで〈げっとー〉やおまへんか。よお、こんなうそかかはるわ。
まいこさんやげいこさん、いろんなしきたりやとか、せいげんのなかでいきたはるさかい、たぶんそとの、じゆうなせかいがうらやましいやろなと、せけんのおかたは、おもたはるかもしれん。おおまちがいや。げいこはんらに、じっさい、きいてみなはれ。「ほんま、たいへんどすえ」て、こころから、うれしそうにいわはるわ。ゆるぎない、ゆうえつかんや。げいこはんらのせかいは、せけんからとざされたばしょやのうて、まさにそこから、いちばんせけんがよおみえまんのや。じゆうをだんねんすることで、いちだんうえの、じゆうをてにいれたはる、ゆうことや。
まあ、くらべたらしつれいやけど、うちらけだもんてゆうそんざいも、にたようなもんでおます。うちらは、にんげんのおかたみたいな、じゆうはあらへん。〈じゆう〉てゆうたら、いまのぐろーばりぜーしょんのよのなかでは、〈おかね〉のことらしいですけど、うちらはもちろん〈おかね〉ともむえんや。そやからこそ、〈おかね〉ゆうもんのほんしつは、〈おかね〉がじゆうになるおかたらよりも、ずうっとようみえるんどす。
〈おかね〉ゆうのんは、おとぎばなしにでてくる、〈ようせい〉みたいなもんや。うまいことつきおうたら、ほんまにやくにたってくれる、ありがたいもんです。そやけど、ちょっとまちごうたら、ばけもんになって、にんげんをくいころしてしまいますのや。
もっとぐたいてきにゆうたげましよ。じゅうまん、ひゃくまんくらいまでのかねは、ふつうのおかたでも、かしこうつこたら、じぶんもまわりのひとも、しあわせになれます。そやけど、なんじゅうおくてなかねは、よっぽどしゅぎょうをつまんと、あつかうのはむりや。たまたま、おんがくぷろでゅーすのさいのうがあって、そんなかねつかんでしもたら、えらいこっちゃ。はじめは、じぶんのせいこうのあかしやった〈おかね〉が、たちまち、ばけもんにかわって、ほんにんにおそいかかってきまんのや。
まわりに、〈おかね〉のおそろしさがわかってるひとが、だれもおらんかったゆうのも、ふこうやね。だいたい、いまはがっこうでも、どうやって〈おかね〉もうけるかばっかりおしえて、〈おかね〉が、へたしたらばけもんにかわるゆうことを、だれもおしえへん。〈おかね〉さえあったら、〈じゆう〉も〈しあわせ〉もてにはいるて、それこそ、おとぎばなしによおでてくる、あほたれなおうさまみたいなことを、だれもが、ぜんていにしていきてる。それが、げんだいのにほんや。ぶさいくなこっちやね。
かくさしゃかい、ひんこんそうのぞうだいがもんだいや、ゆうたはるひょうろんかも、たしかにいたはるけど、それかてけっきょくは、おんなじあなのぬー、いやむじなですわ。きらくなもんですなぁ。ひんこんがもんだいゆうたはるのは、まずしいひとに〈おかね〉さえまわったらええさかい、それにはどうしたらええか、ゆうことでしゃろ。おおきなかんちがいや。ほんまは、〈おかね〉のないことじたいが、もんだいなんやのおて、〈おかね〉のないくらしに、ほこりもしあわせも、みいだせんようになってしもた、ゆうことがもんだいなんや。ほんで、〈おかね〉のないくらしに、ほこりもしあわせもないゆうことは、ほんまは、〈おかね〉のあるくらしにも、それはない、ゆうことや。
こういうことは、〈おかね〉というもんの、きほんてき〈ろんり〉からきけつすることでおます。そやから、まえもゆうたように、〈おかね〉はだいじにしなあかんのや。うちらにはこんなこと、おつきさんはまるい、みたいにはっきりみえてんのやけど、〈じゆう〉なにんげんのおかたらは、なかなか、おわかりやないみたいでんな。
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