前期が終わり、大学教員の方たちはレポートを採点する季節である。
同じようなことが延々と書かれた大量の作文を読み、ちょっと気の利いた内容があるとコピペではないかと疑ったり、差のつけようもないがぜんぶ同じというのもサボっているみたいだからと無理やり点差をつけたり、それは思いのほか苦行に近い仕事だろうから愚痴を言いたくなるのも無理はないが、以前からぼくがどうしても納得できないのは、学生のレポートの多くが「自分の気持ち」で締めくくられている、レポートは主観的な「気持ち」を書くものではなく客観的な論証能力を訓練するものだ、という意見である。
ぼくは学生の書いてくる作文の中にその子の「気持ち」が現れているのに出会うことは、きわめて希である。たとえば原発の問題についてネットで調べた事実を並べ立てた後で、最後にそうした事実とはまったく無関係に「でもやっぱり原発は危ないから止めた方がいいと思います。」などと唐突に書いてあるのは、「気持ち」などではない。それはたんなる「反射」であって、どこかで見聞きしたことをただ反復しているだけである。つまりそれは主観的な心的内容ではなく、客観的で機械的な動作にすぎないのだが、本人はそれを自分の気持ちだと誤認しているので、そこから自由になれない。こうした作文を読まされるのが苦しいのは、がんじがらめになっているのに本人は自由だと思っているからである。作文の訓練とはいうなれば、言葉の力を借りてそうした束縛状態を脱し、何とかして反射から主観性へと、つまり「自分の気持ち」へと到達することだと言える。
中学・高校で作文とは「自分の気持ち」を書くものだというように教えるから、学生の論理的思考力が育たないのだ、というような批判があるけれども、ぼくはまったくそうは思わない。むしろ、子供たちに「自分の気持ち」を書かせず、評価もしないことがいけないと思う。形の上では「私はこう思う」と書いてあっても、それはただの反射・反復であって、その子の「気持ち」とは何の関わりもない。本人も内心「どうでもいい」という気分で書いている。もし本当に自分の気持ちなら「どうでもいい」わけはないのである。それでは、弁論大会で優勝するような子の作文は違うのかというと、実はそれもどこかで見聞きしたことの受け売りであって、違いはただ言い回しや形式が整っており、かつ「若者らしい」テイストも残っている、つまりちょうど大人が気に入るように作ってあるというだけである。うまく適応しているといえばそうだが、内実はたんなる「反射」とほとんど変わりはない。
高校生たちが「戦争に行きたくない」と叫ぶのはひとつの「気持ち」である。宿題の作文に書くのと同じように「どうでもいい」とは思っていないからだ。自己中心的と言われればその通りであり、どんな気持ちも自己を中心としなければ意味がない。言葉を鍛えるとは主観性を鍛えることなのだから、まず「気持ち」から出発するのはまったく健全である。そして「気持ち」は思考の出発点であると同時に、また思考を総括するものでもある。知識や客観的な論証によって相手を論破したとしても、その思考が最終的にどんな「気持ち」に行き着くかという、行く末をみることが重要である。もしもそれが「議論で勝った。オレは頭がいい」というような満足感とか、自分の言葉で大勢の人間を動かしたという支配の快感にしか収束しないものであったとすれば、そうした「気持ち」が、当の議論の最終的な価値を総括していることになる。その程度のものということだが、そうした低レベルのものであっても、勉強したり努力したりする強い動機にはなる。人を動かすのは思考そのものではなくて、思考の総括としての「気持ち」だからである。