もちろん「自称」ではなく、多くの人からマンガ家でありアーティストでもあると認知されてきた「ろくでなし子」さんが、自分の性器の3次元データをネットで配布したという容疑で逮捕された。彼女はもともと、近代社会において女性器が「見せてはならないもの」「その名で呼んではならないもの」とされてきたことに対して強い問題意識を持ち、女性器は手足と同じ現実的な身体の一部であり、ちゃんと視覚的に表象し、またその唯一の呼び名である「まんこ」を、男の性的好奇心に汚された語感から解放して、もっと明るく普通に使おう!という方向で、表現活動をしてきた人である。
女性身体の表象や言語表現をめぐるこうした抵抗運動自体は、けっして今にはじまったことではない。ぼくが大学に入った頃、中山千夏さんが『からだノート』という本の中で、女性は恥ずかしがらずに自分の性器をちゃんと見よう、そして抵抗はあるかもしれないけれども、女性器を呼ぶ普通の(つまり「ヴァギナ」等という科学起源の用語ではない)言葉は「まんこ」しかないのだから、それを男の性的ファンタジーから奪回してちゃんと使えるように広めようという提言を行い、ぼくは女ではないけれども、切実に共感した(その後何年も経ってから上野千鶴子さんが「私は教壇から『まんこ』という語を言い放った最初の大学教授である」と語ったマッチョな言い方にはそれほど共感できなかったが)。
とにかく、ろくでなし子さんの主張内容自体はけっして新しいことではなく、女性解放運動やフェミニスト運動の中で言われ続けてきたことではある。けれどもそれを、社会運動や理論としてではなく「アート」という文脈を使って誰にでも分かりやすい形で提示することは、とても意味のあることだと思ってきた。だから今日、自分の性器の3次元プリンター用データをネット経由で配布したことに対して警察が動いたのは、彼女にとって非常に不運なことであり、また不当なことであると思う。こんな不当な逮捕は一刻も早く取り消し解放してあげないといけない。なぜそう言えるかというと、 それは彼女の逮捕は警察の目的ではなく、別な目的のためのたんなる口実にすぎないからである。
この種の事件が起こると多くの人は、彼女のやっていたことは女性がみずからの身体イメージを解放する重要な活動であり、彼女自身が女性なのだから猥褻な意図があろうはずもなく、また「アート」として活動なのだから、どう考えても逮捕されるようないわれはない、等々と抗議をすることだろう。そうした抗議はもちろんやってかまわないと思うが、警察はそうした抗議に対しては、たぶん準備ができているだろうと思う。というのも、警察が今回の逮捕に踏み切った本当の動機は、3次元プリンタで出力可能な「女性器」のデータが配布されたことではなく、女性器のデータですら配布できるのだから、基本的にはどんなものでも3次元データを容易にやり取りできるはずだという、このインターネット環境の「開放性」そのものがターゲットだからである。
だから警察の観点からするなら、人が「女性器がなぜ猥褻なのだ?性器は人間身体の自然な一部ではないか!」とか、「これはアート作品であり、猥褻な意図のものではない」といった抗議を延々としてくれていた方が、実はありがたいのである。なぜかというと、そうした議論にかまけていることで、警察が今回のような事案に動いた本当の理由——ネット環境の自由さそのものを規制したいという動機——を、覆い隠すことができるからである。何も事由がないのに情報環境そのものに新たな規制をかけることはできないので、「猥褻なものを公表した」というような、そもそも警察にはあまり関心がない事柄で誰かを逮捕しておいて、それに対して関係する人々が「けしからん!文化も芸術も分からない警察官のオヤジどもが私たちの自由を侵害するなんて!」といったレベルで騒いでいてくれた方が、都合がいいのだ。
性的な事柄、とりわけ「女性器」のイメージをめぐる問題は、多くの人を困惑させそこに注意を集中させる。セックスは人間の普遍的な関心事だから当然である。これまでの歴史において支配権力はしばしば、セックスをめぐる人間の好奇心を、みずからの政治的意図を隠蔽するために利用してきた(たとえば1960年代の「フリーセックス」は、若者たちの関心を政治的改革から逸らすために有効だった。今の社会も依然その影響下にある)。「芸術か猥褻か?」という問いかけは、「チャタレー裁判」をはじめ、とても古い問いであり、分かりやすい。けれども重要なことは、この問いに答えることではなく、このような問いが、そもそも誰によって作られ、誰にとって都合がいいのか? と問い返すことなのである。