今日(4月28日)の夕方は、京都芸術センターで行われる安野太郎君の「ゾンビ音楽」公演 "Duet of the Living Dead" に招待されている。木村悟之君の制作した映像上映もあり、その後で電子音楽研究家の川崎弘二さんと、何か話をすることになっている。「ゾンビ音楽」とはゾンビが演奏する音楽だが、そこで「ゾンビ」と呼ばれているのは、実はソプラノ・リコーダーを演奏する指だけのロボットである。ロボットはもちろんパソコンによって制御されている。こうした試みを電子音楽・実験音楽の歴史の中でいかに理解するかという話はたぶん川崎さんがされると思うので、ぼくはむしろ「ゾンビ」というコンセプトについて考えてみたい。つまり、なぜこの装置をロボットではなく「ゾンビ」と呼ぶのか?、機械をなぜ「生ける屍」として考えようとするのか?という問題である。
死体が何らかの仕方で動き出すという考えは地球上に広く分布している。中国の「僵尸(キョンシー)」もそのひとつである。「ゾンビ」は、本来西アフリカの呪術的世界観である「ヴォドゥン(Vodun)」に登場する自然霊の呼び名に由来する。「ヴォドゥン」は黒人奴隷と共に海を渡って中央アメリカにたどり着き、英語では「ヴードゥー」と呼ばれ、その信仰内容は白人たちから好奇と恐怖の眼でみられるようになった。その中でもっとも広く知られるようになった主題のひとつが「ゾンビ」である。この前の記事で紹介したゾラ・ニール・ハーストン(Zora Neale Hurston)のエッセイ集 Tell My Horse: Voodoo and Life in Haiti and Jamaica (1938) には、そうした文化的伝統が活き活きと描かれている。だが現在私たちが「ゾンビ」という名で理解しているものは、そうした伝統とはほとんど関係がない。「フランケンシュタイン」のイメージの起源が1931年のユニバーサル映画におけるボリス・カーロフの演技にあるように、私たちが「ゾンビ」の名で共有しているものは、1978年に公開されたジョージ・A・ロメロ監督の映画に由来する。この映画は世界的に「ゾンビ」というタイトルで知られるようになったが、英語の原題は "Dawn of the Dead" であり、本日京都で演奏される安野君の作品名 "Duet of the Living Dead" はもちろんそれを下敷きにするものである。
この35年前のロメロによる映画と、それ以来数え切れないほど作られてきたゾンビ映画を通じて、「ゾンビ」は私たちに馴染み深いものとなった(宮藤官九郎が作・演出した歌舞伎『大江戸りびんぐでっど』のようなものまである)。そこにはもう、アフリカや中南米の黒人文化とのつながりはほとんどない。では現代の「ゾンビ」において、重要なポイントは何だろうか? それは次の3つにまとめられるのではないかとぼくは考えている。①まず、ゾンビはショッピングモールなどの日常的空間に突如集団的に現れること、②それは伝染病のように拡大してゆき自分自身も(最終的には全人類が)ゾンビ化するのではというパニックを引き起こすこと、③だが自分がゾンビ化してしまえばゾンビは死体である以上何も感じないので、銃で撃たれようが頭を割られようが平気であること。
これらの中でもっとも重要なのは③、つまり自分自身がゾンビ化するという局面であると、ぼくは思っている。ゾンビとは「不死」の、マテリアルな実現なのである。もちろん映画やゲームの中ではゾンビは「退治」されたりするのだが、それは(まだ自分はゾンビ化していない)人間にとってそうみえるだけであって、原理的にはゾンビはすでに死んでいるのだから、けっして死ぬことはないのである。そしてゾンビの不死性は、ゾンビが何も感じず何も考えないことと裏腹だ。ゾンビは経験を持たない。しかし外界を知覚し、刺激には反応し、思考を行っているようでもあり、(人間を襲うなど)あたかも意図を持つかのような行動を示す。それはまさに、コンピュータとそれによって制御されるありとあらゆるオートマトンと同じである。現代の私たちはそうした無数のオートマトンに取り囲まれて生活している。ゾンビという表象に私たちが惹きつけられるのは、そうした状況に対する情動的な応答として理解することもできる。
では、なぜ「ロボット」ではなく「ゾンビ」なのだろうか? ここに問題の中心がある。ロボットとは基本的には、外から眺められた対象である。ロボットに関しては、「ロボットは人間にどこまで近きうるか?」といった問いが飽くことなく繰り返されるが、それはロボットが最初から人間の他者だからである。それに対して「ゾンビ」とは自分自身の問題にほかならず、自分がいつ襲われてゾンビ化するかもしれず、あるいはもしかしたらすでにゾンビなのかもしれないのだ! ゾンビとはいわば、内側から経験されたロボットである。だが言うまでもなくゾンビ(ロボット)には、感覚も意識も感情も意図も存在しない。だからゾンビという表象の役割とは、「経験しない」ということを経験するための手がかりとしてなのである。
この問題が「音楽」という形で表現されることはとりわけ重要である。音楽こそ、その演奏の一回的で出来事的な本性と、楽譜から録音技術そしてデジタル化を通じて希求されてきた不死性とが、もっともあからさまな形で対峙している領域だからである。その意味で「ゾンビ音楽」を考えてみるとすれば、それはゾンビ(ロボット)によって演奏される音楽作品といよりもむしろ、テクノロジーの力を借りて音楽それ自体のゾンビ的性格を抉出し、そのことを通して私たち自身のゾンビ的本性を露わにするものでなければならないだろう。