直接親しい間柄でなかったといえ、自分より二十歳以上も若い知人がおそらくは自死したという報せは、命に応える。しばらくの間そのことを考えると世界から意味がボロボロと剥落し、あらゆる事物が空洞に感じられる。いわば自死の感情が伝染してくるのである。
少し前の教授会でも学生の自殺がとりあげられた。自殺を防止するにはどうすればいいかという問題である。もちろん大学だけの話ではない。日本全体では1998年以来、年間自殺者数はずっと3万人を越えたままである。巨大な自然災害の犠牲者よりも多い数の人々が、毎年みずから命を絶っているのである。
だがそうした数字が問題なのではない。数字は自殺を現象として外から眺めた時にだけ意味を持つ。その数字を減らすことが目標だとすれば、そのために立てうる対策は限られている。自殺者の数はその時の社会や経済の状態に大きく影響されているからである。自殺者を減らすには社会が変わるしかない。
ぼくがこれまで聞いた中でいちばん説得力を感じた自殺防止対策は「肝臓を強くすること」である。雑誌『Diatxt.』の編集長をしていた時、断食療法などの指導をしている医師の甲田光雄先生から聞いた言葉だ。自殺者増加の根底には食生活の変化等による肝臓疾患がある。うつ病と言われて来る患者も「うつ病やない、肝臓が弱っとんのや!」と彼は言う(『Diatxt.』8号 [特集:スローネス] 甲田光雄「食べないことを味わう」)。
まるで坂口安吾の小説『カンゾー先生』(今村昌平監督の映画にもなった)みたいだが、ぼくはこれが自殺に関しては、ヘタな人生論や社会分析よりもよほど説得力があると思う。なぜなら内臓の健康状態(必ずしも医学的な意味での健康状態だけではないと思うが)とは、生きることを支える基本的感情の土台だからである。そして、人が自殺に追い込まれるのは理屈によってではなく、感情によってだからだ。
自殺しそうな人、自殺をほのめかすような人に向かって「生きていればまた楽しいことがあるから」などと元気づけてもダメである。それどころか多くの場合逆効果である。なぜなら「楽しいことがあるから生きろ」というのはたんなる理屈であり、死を考える人は、それによってこの世をますます縁遠いものと感じてしまうからだ。
だからそのような場面でなしうる唯一のことは、自殺へ導くものとは反対の、より強い感情を伝染させることである。つまり、楽しいことなんかなくても生きる、「ただ生きる」ことを可能にする感情である。それを仮に「自愛」の感情と呼んでみよう。手紙の定型文で「時節柄ご自愛ください」などと書く。自分を大切にするということである。
自愛は自己愛(ナルシシズム)とは異なる。自己愛においては自己は対象であり、しかも愛する理由は美醜などの社会的規準に支配されている。また自愛は、自己中心主義(エゴイズム)ともまったく違う。エゴイズムにおいては自己は徹底的に目的化されており、世界のすべては自己利益を追求するための手段となっている。
それに対して自愛というのは、手段‐目的という連鎖の外にあるものであり、社会における相対的な価値とは無関係に自分を大切にし、幸福と言える客観的な理由がなくても、自己の存在に幸福を感じることである。よく「能力はなくても人生に自信を持て」とか「お金がなくても幸せに生きられる」とか言われるが、そいう言い方では全然ダメだと思う。「なくても」なんて言い方には「あるに越したことはないけど」というホンネが隠れているからだ。そういう貧乏くさい説教ではなくて、能力やお金の有無とは本当に、完全に、徹底的に無関係な自愛の感情を伝染させることが、重要なのである。
何も幸福になる理由がないのに幸福だなんて、まるでバカみたいじゃないか、と思う人もいるかもしれない。その通りでいいと思う。ぼくたちは膨大な情報に囲まれて賢くなりすぎているからだ。もう少しバカみたいなところがあった方がいい。
ぼくは芸術学の先生なので、芸術の制作や研究を志す学生たちと過ごす時間が多い。芸術に関わっても、お金にも(たいていは)ならないし、国家の利益や社会の発展に寄与するわけでもないし、だからあんまり尊敬もされない。なぜそんなものに関わるのかという質問に、若い頃は(自分を賢く見せるために)シニカルな理屈をこね回していたが、今は年とってほどよくバカになったので、端的に「幸福になるため」と答えている。
「幸福になるため」ではピンと来ない学生には「死なないため」と答える。『死なないために』という著作もある美術家の荒川修作が一昨年73歳で亡くなったのは、ちょうど大阪の国立国際美術館で「死なないための葬送」という彼の作品展が開かれている最中だった。「死なない」ための唯一の方法、それは死を先取りすることである。世間的な価値を逃れ、自愛の感情を獲得するというのは、いわば「予め死んでおく」ということでもあるのだ。いってみれば芸術学の教師としてのぼくの仕事は、死なないために予め一緒に死んでくれる優れた若者たちを増やすことである。
一方、「現代の社会や国家にとって芸術が何の役に立つのか?」などと聞いてくる頭の悪い大人たちに対しては「絶対的に役に立つ」と断言している。ビジネスやテクノロジーは国家社会に寄与するかもしれないが、それらは相対的な優劣や価値に支配されているので「死なない」ためには役に立たない。どんなに成功してもどんなに便利な世の中になっても、自愛の感情から見放されたら人は自殺するからである。そして人間にとって「死なない」ことが最も重要なのは自明だから、芸術はそのために絶対的に役に立つのだ。
だから芸術学者として「ビジネスやテクノロジーも大切だが、それだけでは世の中味気ないから、芸術も大事にしてください」なんて卑屈なことは口が裂けても言わない。芸術こそが大切なのであり、ある意味では人間はそのために生きているのである。今の時代にこんなことをノウノウと言えるほどバカに(幸福に)なれたのは、やっぱりこんな年まで生きてきたからでもある。だから自分より二十歳以上も若い知人の自死は、どんなに考えても悔しくてならないのだ。